NHK大河ドラマ「どうする家康」で、嵐の松本潤演じる徳川家康は、実は「影武者」だった。家康は人生のいずれかの段階で別人と入れ替わり、影武者が江戸幕府を開いたという説がある。
家康には「影武者説」がいくつかあるが、1902年(明治35年)4月、地方官吏・村岡素一郎が出版した「史疑 徳川家康事蹟」が最初である。同書では、松平広忠の嫡男で幼名竹千代、元服後は松平元康と名乗った人物は尾張守山で阿部弥七郎正豊に暗殺され、家臣の世良田三郎四郎元信が、のちの家康になったというのだ。
元信は元々、肉食や妻帯を許された願人僧侶だった。母親はささら者の娘・於大と新田氏の流れをくむ江田松本坊という祈祷僧で、国松と名付けられた。父が蒸発したため於大は再婚し、国松は実の祖母に預けられ、その後は東照山円光院の住職・智短上人の門に入った。だが、禁を破り破門され、駿府を放浪中にさらわれて、売られたという。
浄慶は1560年(永禄3年)、実父の松本坊が源氏の流れを汲む新田氏の末裔と称していたこともあり、同じ源氏の姓名・世良田、そして世良田三郎四郎元信と名乗るようになった。この元信は桶狭間の戦い直前、元康(のちの徳川家康とされる人物)の嫡男・竹千代(のちの信康)を誘拐して、遠州掛塚に逃走した。
桶狭間で今川義元が討たれ、今川氏が混乱すると、元信は同志を集めて浜松城を落とし三河を攻略しようとしたが、元康に敗れて尾張に逃走。信康の身柄を元康に返還することを条件に、罪を許されて家臣になったという。
元康が不慮の死を遂げた時、嫡男・信康はまだ3歳。そこで元康と似ている世良田二郎三郎元信が、信康が成人するまでの身代わりとなった。
だが、1579年(天正7年)、信康と生母・築山殿が敵の武田勝頼と内通していたことが発覚。織田信長の逆鱗に触れた信康が自害したため、世良田三郎四郎元信は松平三郎四郎元信となり、その後の徳川家康となったという。
家康の影武者説はそれ以外のもあるが、それはまたの機会に紹介したい。
(道嶋慶)