三陸の山田町も、津波によって大きな被害を受けた。いつもは湖のように波も立たない穏やかな山田湾に、巨大な津波が押し寄せた。南側の船越湾から来た巨大な津波は湾を乗り越えて山田湾からきた津波とぶつかり、見上げるばかりの波の柱が立ったと、目撃者が証言する。そこにあった、抱えることができないような杉の巨木が何本も途中からへし折られていたのを見て、改めて津波の力の物凄さを実感したものだ。
そこには老人介護施設の「霞露(かろ)」というホームがあったが、100人近くの老人たちが逃げる間もなく犠牲になってしまった。船越半島の最高峰514メートルの霞露ガ岳にちなんで名付けられた「霞露」の2階建ての建物の屋根には、津波によって巻き上げられた乗用車が十数台乗っており、とりわけ白いポルシェが目立っていた。
なぜ津波常襲地帯の海辺近くに老人ホームが作られたのかの検証も終わらないうち、施設は解体されて、今も草地が広がっているだけ。この惨事が記事になることは滅多にない。
そこから湾の先へ行く道路はところどころで寸断されていたが、トラックの後をついていくと、やっと大浦という集落に着くことができた。山々に囲まれ、山田湾に面した集落であり、船着き場の防潮堤の内側には津波に襲われた家々が横たわり、足の踏み場も見つからない有り様だった。
ここはマツタケの産地としても有名なので、震災前から何度も足を運んでいたから、知人もいる。一方、反対側の船越湾に面していた小谷鳥(こやどり)には十数軒の住居があったハズなのに、何もなかったように、えぐられた地面が続くだけだった。
ここに住んでいたマツタケ採りの名人と言われる70代の男性は地震後、避難所とされていた見あげるばかりの木造の小屋へ、妻や娘、そして3人の孫を連れて逃げた。
30メートルばかり下の湾は最初、静かだったというが、津波はそこを飲み込むように襲い、一家5人が行方不明になってしまったのである。小屋の脇の斜面の木々にしがみついた本人だけが助かり、さらに生き残ったのは、隣の宮古市で電気工事の仕事をしていた娘婿だけであった。
三陸の各地を取材して回ったが、一家5人が犠牲になったのは私の知る限り、最大の被害である。
震災直後から停電となり、学校の校舎や教室が避難所に充てられた。小さな集落であるために誰もが顔見知りであり、犠牲者が出た知人にはいたわる様に接して、重苦しい空気に包まれていた。
早めの夕食時間には、各家にある冷凍庫から食材を持ち寄って、食事の用意がされた。それはマツタケであり、鮑、ホタテやカキであった。カセットコンロに乗せた網の上には鮑が乗せられ、香ばしい匂いが充満していた。
解凍されたマツタケは牛肉と一緒に炒めて、すき焼きが作られた。新鮮な野菜は手に入らないが、冷凍庫が空になるまで、そのような食事をしていたのである。
「すごい食事風景だったから記事にしようと思ったんですけれど、これを書いたら大ヒンシュクになるかと思って、書けませんでした」
まさに偶然なことに、東京暮らしの親しい新聞記者と会った。三陸で陸の孤島と呼ばれている集落を探して、取材に来たらしい。しかし、想像もしなかった食事の風景を見て驚いたと彼も苦笑したし、私も結局、書くことはなかった。
頻繁に自衛隊のヘリコプターが飛び、南の船越湾方向では山火事が発生して、自衛隊の大型ヘリコプター数機が上空で消火作業をしていた。
「風向きがこっちになったら、ここは全滅だな」
津波の被害を免れた大浦で暮らす知人は、心配そうに赤く染まった山を見上げていた。
「心配してもしょうがねえから、飯でも食うべえか」
食堂もコンビニもないので、言葉に甘えて食事を頂くことになった。身長ぐらいの長さの大きな冷凍庫から食材を探して、テーブルの上に置いた。当然のことながら、鮑とマツタケが主役だった。鮑は近隣の漁師から貰うことも多いし、マツタケは自分で採ってくるし、そのお裾分けは当たり前である。
「ビールもありますよ、いかがですか」
「ありがとう。だけど飲む気力もないから…」
私はあまりの惨事を目にしているので、食欲もなくなっていた。時折、余震で体が揺れる。そして福島の原発が大変なことになっているニュースを聞きながら、暗澹たる気持ちを引きずっていた。
(深山渓)