2011年3月12日の夜8時、東日本大震災の現場を取材するため、私はやっと沿岸の岩手県宮古市に入った。が、漏電火災が頻発しているのでうかつに通電できず、停電で街は真っ暗。動いているのは消防車だけだった。
瓦礫の量はすさまじく、船が何隻も道路に横たわっている。通行止めになっていたので、諦めて車中泊し、翌朝の日の出前から動き出した。会いたいのは、宮古市で20年以上もビデオ屋を営んでいた「ビデオ沢口」の沢口功社長だった。
彼は岩手朝日テレビからニュース映像を委託されていたので、あの大災害を絶対に残していると確信していた。しかし、携帯電話もまだ繋がらず、連絡を取ることができない。ネットも通じないため、写真や原稿を送る手段もなく、そのためには盛岡市へ行かなければならないことが分かって、暗澹たる気分になった。
宮古と盛岡の距離は約100キロあり、道路は問題なくとも、急いでも片道2時間近くはかかる。さりとて、行かなければ手元の写真や原稿は、陽の目を見ない。盛岡の中心部で定宿にしているホテルは、まさかの臨時休業だった。震災で不具合があるので、休業しているらしい。
「申し訳ありません。ネットを使えない沿岸から来たんです。なんとか使わせてもらえませんか」
顔見知りだった支配人がなんとか許可して、部屋を貸してくれた。机にパソコンを置き、脇の大型テレビでニュースを見ながら、写真を送る作業を始めた。
「今入ってきたニースです」
という女性アナウンサーの声で横のテレビを見ると、それは岩手朝日テレビによる、黒い波が防波堤を越えてくる映像だった。宮古市の中心部を流れる閉伊川(へいがわ)を逆流してくる津波に乗って、防波堤を越えた車がおもちゃのように転がっていく(写真)。これを撮ったのは沢口さんか、従業員の工藤歩クンのどちらかだ。
話を聞きたかったが、携帯電話が不通のため、3日ほど後になった。
なんと沢口さんは寝たきりの母親を避難させるため、自宅で姉と一緒に母親を玄関から外に出した際に防潮堤の外側からの津波に襲われ、母と姉は即死。沢口さんは100メートルほど流されてなんとか助かったものの、腰を強打して手術を受ける予定になっているということが判明した。
このため、沢口さん抜きで、工藤クンから話を聞いた。
「震災直後にオレは市役所あたりへ行って、被害がないかと撮影していたんです」
市役所は閉伊川の5メートルの防潮堤に守られているので、向こうの川の様子は全く見えない。すると市役所3階のベランダで手を振っている人が見えた。
「何か叫んでいるようでしたが、遠いので声は届きませんでした。近づいていったら、その人影が市長で『工藤クン、逃げろ逃げろ、津波が来るぞ』って叫んでいたので、こりゃあ大変だと走って市役所に飛び込んで、3階に上がったワケなんです。命の恩人ですから、市長には一生逆らうことはできません」
バルコニーには市の職員や記者クラブの連中もいた。工藤クンが上がった時にはまだ津波は防潮堤を越える前だったため、一部始終を撮影することができたというワケである。
岩手朝日テレビの本社は盛岡市にあり、宮古湾を臨む高層ホテルの屋上には、リモートで動かせる監視カメラが設置されていた。本社でも津波は確認できていたが、まさかこんなことになっているとは、想像以上だった。
それでも宮古では絶対取材しているだろうからと、3月13日になって、陸路で来たスタッフが工藤クンの自宅へ行き、素材を持って盛岡に引き上げる。撮影テープを見て驚いて、全国でも放送したという流れだった。
あの大スクープ放送から約1カ月が経って、盛岡から部長が宮古の「ビデオ沢口」に挨拶に来た。
「金一封でも持ってきたんですか」
私が聞くと、沢口さんが苦笑する。沢口さんは手術をしなくてもいいとなって、仕事を始めていた。横で工藤クンも笑っている。
「驚いたよ」
「お金がいっぱいで?」
私は茶々を入れた。
「ううん。リポビタンDがひと箱だった」
その後、いろいろな賞に輝いて金一封もいただけたらしいが、世紀の大スクープ映像の報酬が、なんとリポビタンDだったのである。
(深山渓)