どのくらいの方が「世界津波の日」という言葉を知っているだろうか。おそらくは、知らない人が多いことだろう。これは2015年12月に日本政府が国連で提案し、採択された記念日であり、歴史的にはまだ浅い。
日本政府が提案したとなれば、津波の日は東日本大震災が起こった3月11日を連想するが、制定されたのは11月5日だ。
なぜ11月5日なのか。これは1854年に、安政南海地震が起きた日である。四国・紀州沖を震源地とする地震により津波が発生し、被害者は数千人とされるが、詳しい人数は明らかになっていない。
というのも、前日には安政東海地震が発生。大規模な地震が連続して起きたものであり、津波以外にも家屋の倒壊による被害も大きかったのだ。大災害であったが、日本にはこれ以上の被害を受けた津波災害は幾つもある。
明治以降であれば、1896年(明治29年)6月15日の明治三陸大津波で、2万2000人が死亡・行方不明になった。1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸大津波では、3000人が死亡・行方不明に。前述した2011年の東日本大震災で、2万人弱の被害者が出ていることは周知の通りである。
津波被害を世界的に調べると、記憶に新しいのが2004年12月26日に発生した、スマトラ沖地震のものがある。これで22万人もの犠牲者が出た。
安政南海地震は、村の庄屋さまが津波から住民たちを逃がすために工夫を凝らした逸話が1937年(昭和12年)に小学国語読本に採用されたことで、全国的に知られるようになった。
あらすじはこうだ。海岸近くの村の庄屋さまが、夕方に起きた地震の後で津波が襲ってくることを予想し、何も知らない住民たちを安全な高台に誘導して逃がそうと、小高い場所にあった庄屋宅の脇の田んぼの稲わらに火をつけた。住民たちには庄屋さまの屋敷が燃えているように見えたため、消火しないといけない。急いで駆け付け、それによって津波からの被害を免れた。めでたし、めでたし、という話である。
この原典は、小泉八雲の筆名を持つラフカディオ・ハーンが1898年に発表した「生神(ALiving God)」を元にして、和歌山県広村の教師・中井常蔵氏が創作した物語であることが明らかになっている。
ハーンは1896年(明治29年)の明治三陸大津波の大災害を報じた英字新聞記事を参考に構想を練り、「生神」を作った。その記事には、紀州の安政南海地震のことも記されていたという。
ハーンの「生神」でも中井氏の「稲むらの火」でもこの場所は特定されていないが、中井氏は自分が育った地であると考えた。ただし、ハーンの「生神」は、明治三陸大津波の被災地である三陸の被害記事を参考にしている。
主人公の庄屋さまは、ハーンの「生神」では「儀兵衛」であったのに対し、「稲むらの火」では「吾平」に変えられた。このモデルは、広村の庄屋であった浜口悟陵氏を想定したものだ。
中井氏は日本の醤油の発祥の地として有名な湯浅の出身で、広村とは数キロしか離れていない。広村には和歌山県で最古の、耐久中学校がある。中井氏はそこで学んで教師になり、1937年(昭和12年)に文部省が募集した小学国語読本に応募して、採用された。校長になったのを最後に、退職後は町会議員も担った地域の名士だった。
広村の庄屋であった浜口氏は、千葉県銚子市にあるヤマサ醤油の創業者としても知られている資産家だった。ちなみに広川町の海岸近くに「稲むらの火記念館」があり、大勢の観光客が訪れているが、その建物は浜口宅を改装して記念館としたものである。
浜口氏が残した日誌によると、津波が襲ってきた際には、村内の八幡神社の提灯に火をつけて誘導。住民9人を助けたとある。小高い場所にあった田んぼの稲わらに火をつけて住民を誘導した逸話は、ハーンが創作したものだ。
そもそも11月に、田んぼに稲わらが干されていること自体がおかしく、少なくとも10月までに、稲わらは田んぼから消えているはずである。なにより広村の海岸線の小高い場所に、田んぼは存在していない。しかも地震が起きたのが午後4時半で、津波が後から来るとしても、紀州の地ではまだ日が暮れていないのだから、火を灯す必要もなかった。しかし創作であっても、防災のことを人々が考えるきっかけになってくれれば、全く問題はない。
稲むらの火記念館の崎山光一館長は「稲むらの火」がフィクションであることを認めた上で、次のように語る。
「ハーンが広村に取材に来たという話はありませんが、明治三陸大津波の際に安政南海地震のことも書かれていたので、参考にしたんだと思います。中井氏は地元の広村の庄屋さんをモデルにして、話を膨らませたんでしょう。広村では安政南海地震から50年後に記念日として毎年奉っていて、今年で120回になります」
津波から逃げるため高台へと向かうのは常識であるが、そもそも高台に住むようにすれば津波の被害から免れられることを、海岸線で暮らす人々はもっと感じるべきなのではないだろうか。(つづく)