炎のように燃えて、まっさかさまに堕ちてしまった歌姫──それが中森明菜なのだろうか。発売されたばかりのベスト盤が大ヒットして根強い人気を見せつけたが、それでも、そこに彼女の姿はない。新たな歌声が届くことはない。時計の針は、昭和から平成に移行した頃から、ゆるやかに動きを止めた‥‥。
中森明菜が最後に姿を見せたのは、10年7月13日のこと。パチンコ台のキャラクターとなって発表会に出席したが、その直後に「体調不良により無期限活動休止」をアナウンスされる。
奇しくもパチンコ機種のテレビCMは、明菜が奈落の底まで落ちてゆく映像が病状を暗示していた‥‥。
あれから4年が経った。8月6日に発売された初のオールタイムベストは、オリジナル集がオリコンチャート3位、カバー集が7位と驚異のセールスを記録。スポーツ紙などで「明菜、復活!」の文字が躍った。
ベストの目玉として、6月にレコーディングした新曲「SWEET RAIN」が含まれていることが発表された。ただし、収録時の写真などは一切、公表されていない。あるいは休止以前の未発表作を「新曲」と称したことも、十分に推測できる。
それでも、明菜の歌声に高い関心が寄せられたことは事実である。
「皆さんがおっしゃる“黄金の10作”を含め、聴きたい人が多いのはありがたいことですよ」
ワーナー・パイオニア(当時)のディレクターとして、明菜と3年を密に過ごしてきた島田雄三が言う。デビュー曲の「スローモーション」から、井上陽水が作った「飾りじゃないのよ涙は」まで、島田が直接の担当だった時期が“黄金の10作”と呼ばれている。
島田は「スター誕生!」(日本テレビ)に参加し、明菜にスカウトの意思を示すプラカードを掲げた。それまで「スタ誕」とワーナーは疎遠であったが、日テレと敵対する渡辺プロの資本が撤退したことで、初めて参加を許されたのだ。
「あの時の明菜は‥‥もう、ピカピカどころかビカビカに光っていた。何度か予選落ちしたことで『新鮮さがない』と敬遠する番組スタッフもいたけど、ちょうど決戦大会のあたりで最高の旬がやって来ていた」
実に11社という熾烈な争奪戦を制し、レコード会社はワーナーに、事務所は研音に決まった。明菜はデビュー前から事務所に対しては意見をはっきりと言い、そのため、わずかな期間にマネジャーが何人か交代させられている。
「研音が言えないことも僕がはっきり言う。だから明菜に『何でも島田さん』って呼ばれていましたよ。時には明菜が鼻水を垂らすくらい大ゲンカして泣かせたこともあったけど、ずっと明菜のそばにいてほしいとお母さんにも頼まれた」
明菜がデビューした82年は、日本のアイドル史上、空前の活況を呈した。松本伊代、小泉今日子、堀ちえみ、早見優、石川秀美が並び「花の82年組」と呼ばれた。
やがて明菜は、いち早くアーティスト性を打ち出していく。シングルとほぼ同じペースでアルバムを発売し、島田の記憶では最初の1年で100曲を明菜のために用意した。
「デビューイベントを豊島園でやって、その司会を徳光和夫さんにお願いした。徳光さんが『この子、絶対にスターになるよ!』と興奮していたのが忘れられません」
ただし、明菜と島田の修羅の戦いは、1曲ごとに激しさを増していく──。