夫婦別姓が当たり前になった現代とは違い、80年代はまだ結婚後に「姓を変えない」を選択する女性は少数派だったように思う。
しかも芸能人の場合は、いわば登録商標のような意味合いもあり、結婚であえて名字を変える必要がない。だが、1988年に三菱商事勤務のエリートサラリーマンとの結婚を機に、芸名を「益田宏美」にスパッと変え、周囲を驚かせたのが、歌手の岩崎宏美だった。
彼女の夫は、三井財閥を築き上げた鈍翁・益田孝に連なる、由緒ある家柄の出。そんなこともあってか、「益田」姓を名乗ることになった彼女も、結婚後には義母と一緒に婦人雑誌にたびたび登場するなど、世間からは玉の輿に乗った勝ち組、と思われていた。
ところが、商社マンには海外赴任がつきものだ。1993年には夫がドイツのデュッセルドルフに単身赴任。彼女も翌94年2月、2人の子供を連れて渡独したものの、「言葉の壁」と「学校の問題」を理由に、わずか10日で帰国。それをきっかけに、次第に夫婦間の溝が深くなり、1年後の95年3月14日、東京・青山のビクタースタジオで離婚発表記者会見に臨むことになったのである。
「一緒に生活している時には気が付かなかったことが、離れたことによって、お互いの価値観がずれてきたのではと感じ始めました」
そう語った岩崎は、日本とドイツ間で国際電話を通じ、軌道修正するため努力したが、事態は好転せず、やむなく離婚を切り出したという。
「血液型もB型と一緒。お互い似ていたんです。こんなことを言うと傷つく、喜ぶっていうことがわかりすぎて…。だからカチンとすることがあっても、黙っちゃう。7年間、ケンカらしいケンカをするほどしゃべってなかったのかもしれません」
と唇をかみしめた。
だが、所属レコード会社を会見場所に選んだことに「結婚生活の終焉=即、歌手活動再開」感は否めず、さらに年内にはすでに2枚のアルバムをリリース予定だと聞けば、2人の離婚の裏に、かなり以前からあったであろう「計画性」が窺い知れた。
岩崎は子供の養育はするが、元夫が親権を持ち、籍は外さず、彼女ひとりが岩崎姓に戻って歌手活動を続けていくと語った。一部には「ドイツから帰国後すぐに、岩崎がドレスを発注していた」との報道も。これが事実なら、やはり歌手としての未練を断ち切れなかったということなのだろう。
その後、元夫は再婚し、2人の息子が新しい母と養子縁組したことで、一時は裁判による決着の様相を呈したが、結局、面接交渉権を得ることに。岩崎も2009年には再婚し、子供たちが成人した後は自由な行き来が可能になったようだ。
だがやはり、離婚にはキレイごとでは済まされぬ、複雑な理由がある。それを痛感した会見だった。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。