1984年9月から全日本プロレス&ジャパン・プロレス連合軍に長州力以下13人もの選手を引き抜かれた、新日本プロレスが反撃を開始したのは85年3月。全日本のトップ外国人のブルーザー・ブロディを引き抜くと、ジャイアント馬場の付き人だった越中詩郎の引き抜きにも成功。越中は8月23日に東村山市民スポーツセンターで開幕する「チャレンジ・スピリット’85」から参戦が決定した。
だが、そんな矢先にまたまた離脱者が出た。選手大量離脱後の救世主とも言うべき存在だった、スーパー・ストロング・マシンが8月5日のジャパン主催興行の大阪城ホールに出現して長州と握手。さらにヒロ斎藤と高野俊二(現・拳磁)がマシンと行動をともにして、3人はカルガリー・ハリケーンズなるプロダクションを設立すると同時にジャパンに宣戦布告したのだ。これは、実際にはジャパンによる引き抜きだった。
10月シリーズにはブロディ、全日本から引き抜いた桜田一男(ケンドー・ナガサキ)、テキサス州ダラスのフリッツ・フォン・エリックとの業務提携によって、それまでは全日本の常連だったケビン&ケリーのエリック兄弟を呼ぶことが決定していた新日本だが、マシンらの離脱によって、8~9月のシリーズをどう乗り切るかが大きな課題となった。
新日本は「彼らは新日本と来年3月いっぱいまで契約がある」として、8月23日の開幕当日もマシンらが会場入りするのを待っていたが、午後6時の時点で坂口が記者会見を開いて「出場を予定していた3選手が来なかったのは契約違反。明日、内容証明付の警告書を送付して、あとは法律事務所に任せる」と発表した。アントニオ猪木が「6時まで待て」と指示しての会見だった。
それから2時間後の午後8時、マシンのマネージャーだった将軍KYワカマツが引き連れてきたのは2メートル23センチの巨大なマスクマンのジャイアント・マシン。あの世界の大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントをマシンに変身させたのである。さらに大型のスーパー・マシンも登場。これはマスクド・スーパースターの変身だ。
当時を振り返って藤波は「あれはアンドレのそれまでの実績を考えないで、テレビの視聴率を最優先に考えての苦肉の策。ジャイアント・マシンは迷走していた当時の新日本の象徴だった」と言う。
このジャイアント・マシン登場についてスーパー・ストロング・マシンは後年に「それを知った時には、新日本は本当に苦しいんだろうなと思いましたね。俺への当てつけとは思わなかったですね。アンドレぐらいの大物が被るとなれば、それだけマシンというものに価値があったということの裏返しですからね」と言っていたものだ。
そして前回お伝えした全日本の馬場会長とジャパンの竹田勝司会長、大塚直樹副会長が両団体の関係修復に向けて会談を持ったのと同じ9月19日、東京体育館における最終戦では猪木VS藤波が組まれた。
藤波が新日本の幹部会で「猪木さんと戦わせてください」と申し入れ、猪木が快諾したことになっていたが、実際には85年の大会場のメインはほとんどが猪木VSブロディで、この東京体育館では遂にメインとして組むカードがなくなり、師弟対決は苦肉の策として組まれたのだ。
猪木戦を直訴したとされる藤波は「実際にはやる前は空しさみたいなものもあった。団体としては苦しまぎれの出し物としての試合でしたからね」と、当時の複雑な心情を語る。
起死回生を期す新日本は、この試合を原点回帰の大勝負に仕立て上げた。レフェリーとして“鉄人”ルー・テーズを招聘。さらにはカール・ゴッチが「これが初代世界王者フランク・ゴッチから伝わる真の世界王者のベルト」と新日本の旗揚げ戦に持参し、のちに猪木に寄贈したクラシカルなベルト(実際にはかつてゴッチが保持していた米オハイオ版AWA世界ヘビー級ベルト)が賭けられることになったのだ。
猪木にも藤波にも複雑な思いがあっただろうが、いざ試合が始まると、師弟は新日本の神髄とも言うべきストロング・スタイルの戦いを繰り広げた。関節技の攻防から猪木のジャーマン・スープレックス、藤波のドラゴン・スープレックスといった大技まで両雄ともに引き出しを全開。藤波の足4の字固めに「折ってみろ!」と猪木が叫ぶシーンは、この試合の名場面として知られている。
最後は猪木が卍固めを決めるとテーズがレフェリー・ストップを宣言。35分29秒の名勝負は「新日本の魂健在」を示すものだった。
しかし10月末にはWWF(現WWE)との業務提携終了によって藤波のWWFインター・ヘビー級、藤波&木村健吾(現・健悟)のWWFインター・タッグ、ザ・コブラのWWFジュニア・ヘビー級のベルトの返上を余儀なくされるなど、新日本の受難は続く。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。