1985年から日本マット界は新日本プロレスVS全日本プロレス&ジャパン・プロレス連合軍という図式になったが、盤石と思われていた全日本&ジャパン連合軍にほころびが見えたのは、ジャパンが自主シリーズを開催した5月だった。
ジャパンのシリーズ開催については全日本とジャパンの間で「ジャパンは1年間に1週間の自主興行を3回以上に分けて企画し、主催することができるほか、1日を単位とした特別試合を企画し、主催することもできる」という約束が交わされていて、全日本はジャンボ鶴田以下の所属日本人選手、スタン・ハンセン、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスを貸したが、シリーズ天王山の5月13日の大阪城ホールの鶴田VSキラー・カーンの試合前に事件が起こった。
ジャイアント馬場、鶴田に次ぐ“全日本第三の男”だったにもかかわらず、81年4月に新日本に引き抜かれたタイガー戸口が出現。鶴田とカーンに対戦要望書を突きつけ、さらに長州と天龍源一郎にも宣戦布告したのである。
戸口はその3日前の10日には新日本の福岡スポーツセンターに出現して、アントニオ猪木にも対戦要望書を突きつけていた。
この一連のアクションはジャパンの大塚直樹社長の仕掛け。「猪木にも宣戦布告した戸口をジャパンと全日本が受けて立つ」という絵を描いたわけだが、何も知らされていなかった馬場は「俺は対戦要望書を見てもいないし、受け取ってもいない。受け取るつもりもない」と完全拒否。馬場は戸口の4年前の裏切りを許していなかったのだ。
全日本の選手以外にも長州のライバルを作りたかった大塚は、8月の自主シリーズで戸口をビッグ・ブラック・モンスターなるマスクマンに変身させて上げようとしたが、馬場はこれも拒絶。馬場は、全日本マットの流れとは違うことをしようとするジャパンに疑念を持つようになった。
だが、ジャパンはその後もイケイケ状態。6月には東京・世田谷区池尻に1階が道場、2階が事務所、3階が合宿所という新本社が完成。新日本との和解も成立して19日の竣工式には猪木から花が届き、ドン荒川ら4選手が出席した。
新日本との和解は、新日本が契約破棄の実損賠償金をジャパンに支払う代わりに、ジャパンは長州らの契約解決金を新日本に支払い、ジャパンが所有する新日本の株券を新日本に譲渡する代わりに、新日本はジャパンが所有するアントン・ハイセルの社債を返金するという形で成立したのだ。
その8日後の27日には長州が大塚に代わってジャパンの社長に就任。代表権はなかったものの、馬場と猪木に次ぐ社長レスラーの誕生は大きな話題になった。
そして自主シリーズ第2弾最終戦の8月5日の大阪城ホールでジャパンは大きな仕掛けに出た。
この日は長州と鶴田の頂上対決が行われる予定だったが、当日の朝に鶴田が右肘手術のために入院。急遽、ファン投票で長州VS谷津嘉章のジャパン同門対決が実現。勝利した長州はジャパン全選手をリングに上げて「もう目標は達成されました。今日限りで維新軍団は解散します!」と挨拶すると「もう馬場、猪木の時代じゃないぞ! 鶴田、藤波、天龍‥‥俺たちの時代だ」と力強く宣言した。プロレス史に残る「俺たちの時代宣言」である。
この言葉に呼応するようにリングに駆け上がったのは、長州らが去った後の新日本を支えていたスーパー・ストロング・マシン。長州が「俺はこういう状況を待っていた。マシン、やろう!」と差し出した右手をマシンがガッチリと握ると、大阪城ホールは大歓声に包まれた。それはまさに新時代の幕開けを告げるようなシーンだった。
その後、マシンはヒロ斎藤と高野俊二(現・拳磁)と合流して独立プロダクションのカルガリー・ハリケーンズを結成したが、裏ではジャパンから毎月のギャラを保証されていた。
彼らをジャパン所属にせず、敵対するポジションに置いたのは、完全独立した時のジャパン勢への対抗勢力が必要だったから。全日本に提供するための引き抜きではないから、馬場は知らされていなかった。
馬場はマシンが大阪城ホールに出現する前日4日に日本を発って、ハワイでNWA会長のジム・クロケット・ジュニアと会談。その後、8月7日に新日本の坂口征二副社長がプリンス・トンガ(キング・ハク)、桜田一男(ケンドー・ナガサキ)と会うという情報をキャッチしてLAに急行。坂口と会談を持って引き抜きをやめるように要請したが、ここで馬場は坂口からマシンの新日本離脱とジャパン登場を知らされて愕然となった。
「引き抜きをやめるなら、大塚にマシンらの引き抜きをやめさせる」と、馬場は坂口に提案。新日本の依頼で後藤達俊をパートナーにしてノースカロライナで活動していた桜田は止められなかったが、トンガは全日本に留まることになった。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。