最近は下交渉や事前交渉、代理人交渉などもあり、オフに行われるプロ野球選手の契約更改交渉が、報道陣や関係者の前で大立ち回りとなるケースは少ない。だが、かつては選手たちの言動がスポーツ新聞の1面を飾り、スポーツニュースで大きく報道されたものである。
その中で、球史に残る1日だと今も語り草になっているのが、1991年12月2日の日本ハムの契約更改交渉である。
なんと、自らが持っていたセカンドバッグを、マウンド上での投球よりも力強く投げる選手がいたからだ。口火を切ったのは当時、トレンディー投手として人気の高かった西崎幸広だった。 西崎は入団以来、5年連続の2ケタ勝利をマークした実績を盾に、2000万円増以上の、最低8000万円を要求した。ところが球団から提示された金額は、わずか800万円アップの6800万円。これに西崎は、端正な顔をゆがめて激怒。
「だからプロ野球よりプロゴルフの方が夢がある、といわれる。こんなことなら来年は休む」
怒りのあまりサボタージュ宣言をブチ上げた挙げ句、手にしていたセカンドバッグを力いっぱい、イスに叩きつけた。あまりの剣幕に、待ち受けていた報道陣からは「シーズン中にあのくらい力のこもった投球をしていれば、もっと成績がアップしたのに」と陰口が出るほどだった。
だが、すさまじさでは、この日の大トリで契約更改交渉に臨んだ武田一浩が、さらに上をいく。数年間、守護神として実績を残していた武田は、5000万以上を要求。一方、提示されたのは4200万円である。この査定を見て席を立った武田は用意された会見場に現れるや、ファイターズとロゴの入ったブラインドめがけて、抱えていたルイ・ヴィトンのセカンドバッグを全力投球。力のこもったストレートで、ブラインドを破壊してしまった。
「もうストッパーはやらない」
と職場放棄も辞さない覚悟を口にした後は、
「もう今年は球団に来ない」
越年を宣言しただけでなく、コミッショナーへの年俸調停もチラつかせたのだった。現在はNHKのBS放送で、大谷翔平が所属するエンゼルスの試合を冷静な語り口で解説しているだけに、信じられない言動だ。この2人の大暴走に、「親分」の異名を取った大沢啓ニ球団常務もおなじみの喝を入れられず、困惑するばかりだったという。
その後、数回の契約更改交渉を経てなんとかコトは収まったが、今のご時世なら完全にアウトな、怒り心頭のパフォーマンスだったのである。
(阿部勝彦)