サッカーW杯アメリカ大会の出場を逃した「ドーハの悲劇」(1993年)。日本から遠く離れたカタールで何が起きたのか、多くの選手がその裏側を語ってきたが、柱谷哲二氏、吉田光範氏、北澤豪氏、福田正博氏が前園真聖氏のYouTubeチャンネルに出演し、改めて振り返っている。
福田氏によると、オフト監督の前の横山謙三監督時代の日本代表は「派閥」が存在し「チーム内にチーム」ができていたという。それは読売チーム、日産チーム、その他の3つで、ギスギスしているのを感じたそうだ。
オフト監督はそれを嫌い、チームを1つにしようとしたという。鍵を握ったのは柱谷氏。柱谷氏は、Jリーグ開幕の前年に日産自動車から読売に移籍。両チームに顔が利く人物がキャプテンになったことで、派閥は少しずつ消えたという。福田氏は、
「テツさん(柱谷)が移籍して読売が大きくなり、日産が少し落ちてきたことで1強になりチームが1つになった」
と分析した。
最終予選は初めてづくしだったことも4人の記憶に残っているという。行きも帰りもチャーター機だったのはこの時が初めて。移動時に選手全員がお揃いのスーツを着用したのも初。専属のシェフと用具係を連れていったことも過去に例がなかった。
それを実現したのが柱谷氏で、協会に様々な要求をしたとか。柱谷氏は、
「川淵(三郎=チェアマン=当時)さんが『必要なことは何でも言え』と言ってくれたので、すごく言いやすかった。謙三さんの時は協会に対して何も言えなかった。オフトジャパンになって要求することができるようになった」
当時、Jリーグが誕生して選手がアマチュアからプロに変わったように、代表も大きく変化していたが、それでもW杯出場には手が届かなかった悔しい歴史である。
(鈴木誠)