「寡黙」や「不器用」のイメージが先行する健さんだが、素顔は気さくで、ちゃめっ気もたっぷり。意外な特技に「催眠術」があり、弟分の小林稔侍などは、すぐに引っ掛かると喜んでいたこともあった。
ヒット作「幸福の黄色いハンカチ」(77年)で俳優デビューを飾った武田鉄矢は、直後の会見でこんな1コマを明かした。
「北海道のロケ中に健さんと桃井かおりの3人で、レストランで食事をしたんです。その日はワインも少し飲みました。やがて、健さんはおもむろに『お前らはいいよな。俺はジジイだから、もう誰も相手にしてくれない』とジョークを飛ばしてきたんですよ」
さらに料理を運んできた店主から「大丈夫ですか?」と聞かれると、男2人に女1人の組み合わせであることに引っ掛け「女が1人足りない」と、本気とも冗談ともつかぬ言い方をした。
武田が続ける。
「店主がそれを真に受けて、近所のキャバレーに連絡して、チャイナドレスや割烹着、スパンコールドレスを身にまとった女性が次々と料理を運んでくるんです」
あっけにとられる健さんに対し、店主は真顔で「田舎の女はダメですか?」と聞く。ようやく、自分のジョークが本気に取られたことを理解した健さんは、バツの悪い顔で「まいったな」とつぶやいたそうだ。
そんな健さんが東映に在籍していた頃は、東京の撮影所を中心に「やろう(野郎)会」というグループがあった。千葉真一、梅宮辰夫、山城新伍、山本麟一がメンバーで、数カ月に1度集まっては、その日の幹事が「遊び」を決める。
再び千葉が回想する。
「新伍ちゃんが幹事の時は、上野の女郎屋に花魁を集めて“お大尽遊び”をやりましたね。もちろん、女を抱くために買ったりはしないし、健さんは酒も飲まないけど、ああいう場にニコニコしながら参加してくれたことがうれしかった」
高倉は親交のあるビートたけしを通じ、一時は真剣に「オレたちひょうきん族」への出演を直訴していた。
同じ福岡出身で「駅 STATION」(81年)や「居酒屋兆治」(83年)に出演した小松政夫は、ロケ先で食事に誘われ、得意の瞬間芸を1時間も披露させられたと懐かしむ。
同じくコメディアンの故・たこ八郎は、映画界に語り継がれる「たこの恩返し」というエピソードを持っている。ベテランの映画担当記者が語る。
「ボクサーから芸能界に転向したたこは、健さん主演の映画にも多く出ています。ただ、毎晩のように深夜まで飲んでいたたこは、家に帰ると撮影に遅刻すると思い、真冬に大泉撮影所の門の前で寝てしまったんですよ」
翌朝、目が覚めると高級ジャンパーが肩にかけてある。スタッフに聞くと、高倉がかけてくれたと言う。
「たこは健さんにお礼を言ってジャンパーを返そうとしたら、健さんは『もうそのまま着てなよ、寒いから』とプレゼントしてくれた。たこはその気遣いに感激したんです」(映画記者)
それから数年後、恩返しの機会が偶然訪れる‥‥。