「パリの病院で目撃談がありますが?」
「同性愛についてはどう考えますか?」
およそ映画の製作発表と思えない辛らつな質問が飛び交った。その1カ月ほど前、突如として高倉に「パリでエイズ死」の噂が飛び交っていたのだ。
岡田によれば、根も葉もない噂を打ち消すために東宝社長も同席する会見を開いたが、想像以上にマスコミが過熱する。最初は冷静に答えていた高倉も、やがて、本来の眼光の鋭さで反論──、
「女の噂であれば笑ってすまされるが、殺されるようになれば‥‥。故郷には肉親もいるんです。同性愛だとか、病院に行っていたとか、僕にとってはまったくばかげた話」
なぜ、突拍子もない噂がまことしやかに伝わったのか? 1つには高倉の「オフは事務所にも知らせずに海外放浪」という長年の習性がある。大スターゆえ、旅先での目撃談に何かと尾ひれがつく。
もう1つは、兜町筋の「エイズ薬関連株」に絡めた意図的な情報操作という説。今となっても真相は闇のままだが、こうした霧を晴らすためにも高倉は映画に打ち込んだ。
「最初に頼んだフランス人が書いた原案は、ギャング映画のようでラリーの話が希薄。結局、タイトルも変え、その原案は使わないということを、健さんみずから断りを入れました」
岡田や高倉、そして「南極物語」(83年、フジテレビ)と同じく監督を引き受けた蔵原惟繕は、パリからマルセイユとシナリオハンティングを重ねる。そして撮影が始まったのだが、これが南極や北極とは別の過酷さとなった。
「実際のラリー開催時期に撮っているので、終わるのを待って夜中から早朝にかけての撮影。しかも砂嵐がひどくて、鼻も口も耳の中も砂だらけの状態。それが2週間も続いて、いつしか『早く終わろう』の一心になっていきました」
岡田は、蔵原流のドキュメントタッチな撮影が、高倉とかみ合っていないことを感じる。補佐役につとめたが、蔵原の映画にかける思い込みも過剰であり、意見に耳を貸さなくなった。
それでも、完成したフィルムを高倉と蔵原の2人が試写室で観て、肩を抱き合って泣いていたことを知る。
それが大団円とはならず、公開直前までトラブルが続いた。
「1日の上映回数を考えたら配給元はフィルムを切りたがるが、監督は譲らない。結局、3時間もの長尺になってしまい、紛糾したおかげで宣伝用の試写会も開けなかった。公開も土曜が初日のはずが、間に合わなかったので火曜日という異例の形になりました」
独立以降、新作のたびに大ヒットを記録する高倉にとって、およそ例がないほど不入りとなった。会見での後味の悪さを、結局は引きずったままの幕引きとなった‥‥。