歌手の八代亜紀さんが昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため、死去していたことが、1月9日に発表された。「舟唄」「雨の慕情」など数々のヒット曲を世に出した人気歌手の早すぎる死に、悲しみの声が芸能関係者からも一般のファンからも、続々と上がっている。
八代さんは昨年9月、膠原病と診断されたことを公表し、治療のため休業していた。休業に際し、「必ず元気になって戻ってきますので待っててね」とコメントしていたが、復帰はかなわなかった。
八代さんは中学卒業後、地元・熊本でバスガイドとして勤務後、16歳で上京。銀座でクラブ歌手として歌っていたところをスカウトされ、1971年に「愛は死んでも」(テイチク)でデビューした。
「父親が音楽好きだった影響で、八代さんも音楽好きに。ハスキーな声は父親譲りでした。八代さんは画家としても知られていますが、絵を描くのが好きなのも父親譲り。幼い頃、父親の腕枕で寝るようなパパっ子だったんですよ」(芸能ライター)
歌手を目指したのは、両親のためだった。繊維工場で働いていた父親が独立し、運送会社を立ち上げたが、経営の大変さに四苦八苦。それを見ていた八代さんが「得意な歌で稼いで、両親を助けたい」と考えたのだ。芸能ライターが続ける。
「八代さんは幼い頃から、周囲が聞き惚れるほど歌がうまかった。デビュー後、レコーディングの際に歌唱指導を請け負ったミュージシャンが『歌唱指導なんて必要ない。何もやることがなかった』と言うのを聞いたことがあります。あの素晴らしい歌声がもう生で聴けないのかと思うと、悲しすぎますね」
トップ歌手でありながら、人柄も気さくで多くの人に愛された。雑誌編集者が回想する。
「取材に行った記者やカメラマンに、自分が描いたネコの絵のプリント柄のハンカチを、その家族の分まで『どんどん使ってね!』と笑顔でプレゼントしていました。飾らない人柄に、記者が驚いていましたよ」
葬儀はすでに関係者で行われ、後日、お別れの会を開く予定だ。大勢の人が押し寄せることだろう。