──歌謡選手権の時には、作曲家・鈴木淳先生のところにレッスンに通っていました。
八代 72年に10週勝ち抜いたあとは、先生のご自宅の2階に居候してレッスンを受けながら、曲ができるのを待ちました。私はいつ先生に呼ばれてもいいように寝ないで、夜中の2時、3時にピアノをポロンポロンと弾く音を聴いていました。すると、先生が奥様で作詞家の悠木(圭子)さんに「呼んでおいで」とおっしゃってる。悠木さんが「もう寝てるわよ」と言いながら階段を上がってくる音がして「起きてる? 曲ができたんだけど」と呼びに来てくれたんです。それが「なみだ恋」です。鈴木先生にはその後もたくさん曲をいただきました。私にとっては「音楽の父」です。昨年3月も鈴木先生、悠木先生に「明日に生きる愛の歌」を作っていただきました。
──その後、79年に阿久悠作詞の「舟唄」が大ヒットします。
八代 「舟唄」の詞を読んだ時に、これは大ヒットするなと思いましたね。日本人の心をわしづかみするんじゃないかと。先生にはうれしい言葉もいただきました。「俺は八代亜紀と出会うために9年間、助走をつけてきたんだ」とおっしゃって。この言葉は私の宝物です。
阿久先生との思い出は35周年のステージに来てくださった時のことかな。私が描いた油絵の肖像画をプレゼントさせていただきました。その後、07年に亡くなられましたけど、あの時、少年のように喜んでいたのが忘れられません。その絵は先生の郷里・淡路島の図書館に飾られています。
──NHK「紅白歌合戦」(23回出場)の思い出もたくさんあると思います。
八代 「なみだ恋」で初出場しました。当時は2年目も売れていないと紅白に出られない規定みたいなものがあったけど、私は一発こっきりなのに出ることができた。その日は「日本レコード大賞」の歌唱賞をいただき、終わってから白バイの先導で信号が全部、青に変わる中をNHKホールに向かいました。NHKホールはまだ完成したばかりで、そこで初めてやる紅白という特別な大会だったんです。
到着して「間に合いました。『なみだ恋』です」って言われて、ステージに上がったのね。
ステージには当時、住んでいた三軒茶屋の商店街の皆さんが何十人も寿司樽、横断幕を持って集まってくれました。地元密着、大衆を意識したステキな演出の中で「さあ、みんなのために歌うぞ」って、緊張よりも楽しかったですね。
「舟唄」と翌年の「雨の慕情」は大トリでした。相手は五木ひろしさん。歌謡界が爆発していた時代の「五八戦争」ですね(笑)。