伝説の豪傑の末裔でありながら、主君である毛利元就に対し、クーデターを企てて失敗。元就に自ら手討ちにされ、深谷の下に叩き落とされた武将がいる。渡辺勝(すぐる)である。
先祖は清和源氏3代目・源頼光に仕えた渡辺綱という伝説の人物だ。京都の大江山に住んでいた鬼・酒呑童子を退治した、あるいは同じ京都の一条戻橋に現れた鬼の腕を切り落としたといわれている。
その血を受け継ぐ勝は、毛利家での地位は高かったが、大永4年(1524年)に突然、反旗を翻す。元就の実兄で当主だった毛利興元が死去すると、その子・幸松丸が幼少で跡継ぎとなり、元就は後見役を務めていた。
ところがその幸松丸が大永3年(1523年)、わずか9歳で死亡。元就が家督を継ぐことになったのだが、勝は坂広秀らと共謀し、元就の異母弟・相合元綱を担いでクーデターを起こしたのだ。
毛利氏の宿敵・尼子氏が裏で糸を引いていたという説が有力だが、譜代家臣で主流派だったものの、元就が家督を継いだことで非主流派に転落。共謀者の広秀も分家筋の志道広良方が元就に重用され始めたことで不満を募らせたのが原因だったらしい。
だが元就はこのクーデター計画を察知し、元綱の居城・船山城に攻め込んだことで、元綱は討死。勝の一族も居城・長見山城でほぼ皆殺しにされた。それでも元就の怒りは収まらず、捕らえた勝を自ら手討ちし、その遺骸を谷底に叩き落としたという。
ところが、運命は皮肉なものだ。父が討たれた際にはまだ元服前だった息子・通は備後の豪族・山内直通の元に逃れると、その後、毛利家に復帰。親の仇である元就に仕えた。
そして天文11年(1542年)、月山富田城の戦いに参戦。元就が絶体絶命のピンチに追い込まれた際、元就の甲冑を着用して「我こそは毛利元就!」と叫んでおとりとなり、討死している。父は元就に反抗し、息子・通は命を投げ出して救う。本当に皮肉な話である。
(道嶋慶)