12月14日は赤穂浪士の討ち入りが成功した日として知られている。今でも東京・高輪の泉岳寺にある彼らの墓所を訪れる人は、あとを絶たない。
赤穂浪士は元禄14年(1701年)3月14日、主君である浅野内匠頭長矩が高家筆頭の吉良上野介義央に斬りかかったものの討ち損じ、即日切腹。赤穂藩が改易となった無念を晴らしたことで、歌舞伎などの題材になり、今なお語り継がれている。
だが、討ち入りには赤穂藩士の全員が参加していたわけではない。当初は討ち入りメンバーに加わりながら、様々な事情から志半ばで抜けた人間が多いのだ。彼らの何人かは討ち入り成功後、周囲の冷たい目にさらされ、生き恥を晒して生き続けた。その代表的な人物が、小山田庄左衛門だろう。
赤穂藩の江戸詰め藩士・小山田一閑の子として生まれ、父の隠居後に江戸詰め100石の藩士となった。庄左衛門は城代家老・大石内蔵助良雄が計画する仇討ちの盟約に加わり、同士の堀部安兵衛武庸と本所林町に住み、仇討ちの機会を待っていた。
ところがこの庄左衛門は、素行がよくなかった。長い潜伏期間のストレスがあったのかもしれない。いつしか酒と女に溺れるようになっていった。だが、潜伏費用は無尽蔵にあるわけではない。金に困った挙げ句、同士であり吉岡勝兵衛と称して、江戸南八丁堀湊町に住んでいた片岡源五右衛門こと片岡隆房宅に忍び込んだ。金5両(3両ともいわれる)、小袖に加えて布団まで盗み、逃亡。結局は討ち入りに加わることはなかった。
討ち入り後、息子が起こした事件の詳細を知った一閑は責任を感じ、切腹して果てたという。庄左衛門はその後、中島隆硯と名乗り、夫婦で深川万年町冬木に住み、医師を生業にしていた。そして享保6年(1721年)、下男の直助(権兵衛ともいう)に殺害されている。ただ、この中島隆硯は浅野内匠頭の家臣だったとされているだけで、庄左衛門だったかどうかの真偽は不明だ。もし庄左衛門だとすれば、まさに因果応報というべきだろう。
(道嶋慶)