赤穂浪士四十七士随一の人気者・堀部安兵衛には、意外な弱点があった。なんと、酒をまったく受け付けない、下戸だったというのだ。
歴史ファンでなくとも、赤穂浪士の討ち入りの話は知っているだろう。元禄十四年(1702年)に、播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が江戸城黒書院松の廊下で、高家肝煎の吉良上野介義央に遺恨ありと刃傷におよび、切腹。その主君の無念を晴らすため、翌元禄十五年12月14日、城代家老だった大石内蔵助良雄率いる旧赤穂藩士が討ち入り、上野介の首を主君の墓前に備えた事件である。
その旧赤穂藩士の中でナンバー1の剣客で、人気が高いのが、堀部安兵衛武庸だ。安兵衛は赤穂藩士となる前、中山安兵衛という浪人だった。
だが、中山安兵衛の名前は、江戸庶民の中で鳴り響いていた。というのも、安兵衛は堀内道場の同門である、伊予西条藩士・菅野六郎左衛門との義兄弟ならぬ義甥叔父の関係を結んでいたからだ。
その菅野六郎左衛門が、高田馬場で果たし合いをすることになった。安兵衛は義理から助っ人を買って出て、敵方18人を切り倒したとされる。
実際に安兵衛が倒したのは、3人だった。だが、この「高田馬場の決闘」のウワサがウワサを呼んだ。そして、この話を聞きつけた赤穂藩士・堀部弥兵衛金丸が、娘・きちの婿養子にと懇願。紆余曲折の末、中山安兵衛は堀部安兵衛となった。
討ち入り前から剣で人を切り倒したことがあるだけに、安兵衛には豪快なイメージがつきまとっている。後世まで大酒豪だったとされ、「高田馬場の決闘」に向かう際には、樽酒をたった3口で飲み干したとされている。力水ならぬ、力酒というわけだ。
ところが…安兵衛はアルコールを一切受け付けない下戸だった。赤穂浪士たちは吉良邸討ち入り前に蕎麦をすすり、景気づけに酒を飲んだとされている。そこで下戸の安兵衛が1滴でも酒を口にすれば、剣は振れないだろう。
もしかすると、吉良邸での大暴れは、赤穂浪士唯一の素面(しらふ)だったからかもしれない(写真は赤穂浪士が眠る泉岳寺)。
(道嶋慶)