赤穂浪士で唯一、漢詩で辞世の句を詠んだ武林隆重、通称・唯七は、中国古代戦国時代の儒学者で、性善説を唱えた孟子第69代の末裔だった。
元禄十五年(1702年)12月14日に起きた赤穂四十七士の吉良上野介邸討ち入りは、日本の三大仇討ちのひとつに数えられる。
城代家老・大石内蔵助は仇討ちに興味がないフリをするため、京都・祇園などで遊びまくり、「昼あんどん」と揶揄された話は有名だ。
大石は単独で遊ぶことも多かったが、四十七士の中でお相伴に与った人間が何人かいる。その一人が武林隆重である。
だが、おごられたからといって、忖度するような人間ではなかった。隆重は有名な堀部安兵衛らとともに、早くから仇討ちを主張した江戸急進派の中心メンバー。なかなか仇討ちを実行しようとしない大石たちに業を煮やし、大石の側近に「御家老が腰を上げないのは、あなたたちが腰抜けだからだ」と罵倒したとも伝わっている。
この隆重は、豊臣秀吉が朝鮮半島に攻め込んだ文禄・慶長の役で捕虜になったと伝わる明人・孟二寛の孫だ。孟子から数えて第67代の後衛とされる孟二寛は中国・武林生まれで、医術に優れていたため、来日後は浅野家に仕えるようになった。
浅野家で士分に取り立てられた際、故郷の「武林」を氏として「武林治庵士式」と改名。その後、日本人の渡辺氏から妻を迎え、渡辺治庵と改名している。
その息子が隆重の父・渡辺式重だ。式重には2人の息子がいる。兄・半右衛門が渡辺家を継ぎ、次男だった隆重は分家して、祖父のかつての姓・武林を使うことになった。
討ち入りに参加しなかった兄は、赤穂藩が断絶になった後は広島藩浅野本家に召し抱えられ、武林勘助尹隆と改名している。だが、曽孫・武林隆斌の代で断絶し、日本国内での孟子末裔の血筋は途絶えてしまった。
ご先祖様のDNAを受け継いだのか、漢詩が得意だった隆重だが、お人好しで涙もろく、うっかり者な性格でもあった。赤穂浪士の中でも人気が高く、落語や講談などに、しばしば登場している。
(道嶋慶)