徳川家康の実子であり、豊臣秀吉の養子にもなった結城秀康が所有していた槍がある。1945年3月10日の東京大空襲で消失したため、今は幻となったものだ。江戸時代には黒田節に登場する日本号と並び称され、明治時代には「天下の三名槍」と言われた御手杵の槍である。
室町時代に駿河国嶋田(現在の静岡県島田市)で活躍した刀工・義助の作とされ、長さは4尺6寸(1.38メートル)。柄の9尺(2.7メートル)と合わせると、4メートル以上になったという。穂の断面は正三角形で、深く刻まれた樋(細い溝)が特徴的だった。
穂(刀)を収める鞘が細長い片手付きの杵の形をしていたことから、御手杵の槍と呼ばれるようになったのだが、別の説もある。戦場で挙げた敵の首十数個をこの槍に差して城に帰る途中、真ん中に刺した首だけがボトンと落ちた。その槍の様子が臼でもち米やコメをつく杵に見えたことから、御手杵の槍と呼ばれるようになったという逸話があるのだ。
もともとは下総国結城の17代目当主・結城晴朝が作らせたものだった。晴朝は結城から福井に転封される際、金銀財宝領地内に埋めたとされる「黄金伝説」の持ち主で、実際に「結城家の財宝」は江戸時代に何度か、発掘作業が行われている。
秀康の死後は継承により松平大和守家に伝わり、参勤交代の際には馬印として用いられたという。その鞘は黒熊毛で覆われ、高さ5尺(1.5メートル)、重さは6貫目(約23キロ)以上もあったとされる。
江戸時代末期には11代将軍・徳川家斉の24男である松平斉省が所有し、新たに黒熊毛の鞘ではなく、月の輪熊の毛を白く染めた杵形白熊毛鞘を作らせている。
徳川家にゆかりがあり、「抜けば雪が降る」との伝説がある名槍だったが、戦火には勝てなかった。東京大空襲の際、継承していた松平家の蔵にも焼夷弾が直撃。中にあった御手杵の槍は高温で溶けてしまった。その後、数奇な運命を辿ったこの槍は、レプリカが作られている。
(道嶋慶)