内藤如安(じょあん)忠俊というキリシタン武将をご存じだろうか。
如安は洗礼名ジョアンを音訳したもので、内藤飛騨守とも称される人物である。織田信長に反旗を翻し、希代の茶道具・平蜘蛛とともに爆死したことで知られる、松永久秀の甥として生まれた。父の松永長頼は、丹後の守護代・内藤国貞の娘となった人物だ。
紆余曲折はあったが天正十三年(1585年)頃から、豊臣秀吉の寵臣・小西行長に仕えるようになり、かなり重用されたという。そのため、主君・行長からは「小西」姓を名乗ることを許されている。
如安は17歳で宣教師・フロイスから洗礼を受けた、熱心な信者だった。関ヶ原の戦(1600年)で主君・行長は西軍の主力として戦って敗れ、斬首された。その後はキリシタン大名だった高山右近とともに前田家の客将、いわゆる居候となり、金沢で布教活動や教会の建設に力を注いでいた。
だが、慶長十八年(1613年)に江戸幕府の初代将軍・徳川家康がキリシタン禁止令を発令。そのため翌年、右近、妹の内藤ジュリアとともに呂宋(今のフィリピン)・マニラへ追放となった。
如安はその後、日本人のキリシタン町サンミゲルなどの建設に力を注ぎ、寛永三年(1626)、77歳でこの世を去っている。
まさに晩年は信仰に生きた人物と言えるが、朝鮮半島での如安の評判は最悪だ。それには秀吉の朝鮮に出兵した文禄・慶長の役が起因している。
加藤清正とともに、この朝鮮出兵の中心人物・小西行長の重臣たる如安は、小西飛騨守こと「小西飛」として悪逆非道の権化のように伝わっている。両目は大きい上に、唇はどす黒くて分厚かったとされている。しかも、顔中を髭で被われた上に、ウロコまであったというから、まるで半魚人だ。
如安は文禄の役(1592年)に平壌を陥落させると、美貌の娼婦・桂月香を愛妾とした。だが、桂月香が愛妾となったのは、平安道の役人・金景瑞に日本軍に情報を流すためだったという。
そして数カ月にわたって情報収集したある晩、如安を泥酔させ、庭に潜んでいた金景瑞を招き入れて殺害してしまったと伝わっている。
だが、実際の如安は朝鮮出兵では死んでおらず、関ヶ原の戦いでも生き延びている。勇猛果敢に戦った結果、恐れられていたのか、実際に悪事の限りを尽くしたのか。それは定かではないが、敬虔なキリシタンのイメージとあまりに違いすぎるのは確かだ。
(道嶋慶)