4月15日の西武×オリックス戦で、西武の先発投手・高橋光成が球団ワーストとなる13連敗を記録した。
この日の高橋は7回を投げ、4安打3四球1失点という、いわゆるHQS(ハイ・クオリティ・スタート)で、先発としては十分に役割を果たしたが、打線の援護がなく、今季2敗目。連敗脱出の光明は見えてきたが、2023年9月10日以来の勝利をつかむことができなかった。昨年の0勝11敗に2敗を積み上げ、惨憺たる結果となったのである。
だが「13連敗もしたらプロ野球記録に名前が残ってしまうのでは」と案じる西武ファンは安心してほしい。投手の連敗記録は、なんと28連敗だからだ。今のペースで負け続けても、あと2年ほどかかる計算になる。さすがにそこまで負け続けたら、「記録達成」の前に首筋が寒くなっているはずだ。
この不名誉な大記録の達成者は、太平洋松竹ロビンスの権藤正利。1953年に入団し、1年目からいきなり15勝12敗の活躍で新人王に輝いた、レジェンド投手である。大きく縦に落ちる「ドロップ」が権藤の代名詞だった。
しかし、翌1954年に11勝20敗と大きく負け越すと、3年目の1955年7月9日から連敗街道がスタートする。
もともと胃下垂の持病を持ち、食が細く、体型はさらに細いという投手で、スタミナ不足に泣かされていた。1957年6月2日まで全く勝ち星を挙げられないまま、28もの敗戦を2年近く積み上げたのだ。
ようやく勝利したのは、1957年7月7日の巨人戦だった。自ら先制タイムリーを放った権藤は完封勝利。ナイン総出で権藤を胴上げしたという。この勝利で調子を取り戻した権藤は、このシーズンを12勝17敗で終えている。
その後、なかなか勝てない時期はあったが、先発と救援を兼任しつつ、1973年まで現役を続け、東映フライヤーズ、阪神タイガースと渡り歩いた。阪神時代の1967年には、最優秀防御率のタイトルを獲得している。
引退時のエピソードも強烈だ。当時の阪神を率いた金田正泰監督とは折り合いが悪く、勝てなくなったベテランの権藤に対し、金田監督はマスコミの前で容姿を揶揄するなど険悪な関係に。とうとう権藤が爆発したのだ。
「阪神の後輩だった江夏豊が、自らのサヨナラ本塁打でノーヒットノーランを達成した試合の翌日、祝いの酒席で権藤が『もう我慢できない』と告白し、江夏が『後輩として手助けします』と乗っかったのです。シーズンオフのファン感謝デー終了後、2人で監督室に乗り込み、権藤は話し合いの末に金田監督を殴打、江夏は部屋の外でコーチや球団関係者の侵入を防いだといいます」(球界関係者)
この騒動により球団から自由契約を通告され、権藤は引退した。活躍も不祥事も連敗も全てひっくるめてプロ野球の荒波に揉まれた、まさに破天荒な投手だと言える。高橋などヒヨッコみたいなものなのだ。