自分とは違う人間を演じる俳優にとって、私生活の“つまづき”はスキャンダルとなり、“ピンチ”を迎える。しかし、千葉はアクションシーンを演じるかのように、事もなげに乗り越えているように見える。苦悩を表に出さない名俳優の挫折との向き合い方とは――。
ケガで体操競技を断念する
日本を代表する名俳優、アクションスターとして数々の映画やドラマに出演している千葉真一(73)。その活躍の場は国内だけにとどまらず、ハリウッドや香港映画にも広がっている。
国際的な名声と実績を手に入れた千葉にとって、挫折は縁遠い存在にも思える。
しかし、千葉は鍛え抜かれた肉体を揺らしながら苦笑して、こう話すのだ。
「まさに僕にピッタリの企画だね」
華やかな映画人としての軌跡の裏には、意外にも常に挫折が隣り合わせだった――。
人生最初の挫折は、大学時代に訪れる。後の千葉真一となる前田禎穂は高校時代に体操部に所属していた。県大会、関東大会、そして全国大会で優勝。オリンピック出場を目指して、日本体育大学に進学するのだが‥‥。
「親父に頼んで学費の半分は出してもらっていたんだけど、残りの半分は自分で稼がなくちゃいけない。そこで土木作業や石運び、引っ越しの手伝いとか高い時給で効率よく稼げる肉体労働のバイトばかりしていて。まだ体が細いと思っていたし、筋肉を付けることで選手としても進歩できるんじゃないかと思っていたんだけど、器械体操の選手としてはやっちゃいけないことだったんだ。それで腰を痛めてしまってね」
結果、医師から1年間の運動禁止を宣告される。まさに、体操選手として脂が乗ってきた時期に体を動かすこともできなかった。中学時代からかなうと信じていたオリンピックへの夢を突然、失ったのだ。
「大きな夢が頓挫したわけですから、鳥が翼をもがれたような感じでしたよ。今なら『若いんだからいくらだってやり直せる』と思うけど、当時はとにかく焦っていたね。オリンピック選手になって、金を出してもらった親父とおふくろに恩返しをすることしか考えていなかったから。実家に帰る時は『これからどうしよう?』『何かいい仕事を見つけないと‥‥』と、そのことばかり考えていました」
だが、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものだ。その実家に帰る途中のJR代々木駅のホームで、前田青年に運命的な出会いが訪れる。
「ホームに貼られていた東映の新人募集のポスターが、偶然目に飛び込んできた。実は大学時代に、寮に貼られていた『ミスター・スポーツウェア募集!』というポスターがキッカケでモデルの仕事をしたことがあってね。よくわからないまま賞金目当てに仲間たちと行ったら、2等賞になって3万円をもらったことがあったんだ。そんなこともあり、映画は好きだったし、とにかく早く仕事を見つけたかった。『映画俳優なんかになれるわけない』と思いながらも『これで稼げるなら』と受けてみることにしたんです」
「表に出ろ」の一言で窮地に
オーディションの結果、前田青年は2万6000人の応募者の中からみごと1位で合格。ここに東映ニューフェイス第6期生として俳優・千葉真一が誕生する。
その後、1960年に放送された特撮ドラマ「七色仮面」で主演デビューを果たすと、翌61年には敬愛する故・深作欣二(享年72)の初監督映画「風来坊探偵」シリーズなどに出演。68年には主演した人気ドラマ「キイハンター」での過去に類を見ない過激なアクションが注目を集めて、一躍、国民的人気俳優の地位を確立する。
結果的には体操選手として培った努力が礎となり、ブレイクのキッカケとなる華麗なアクションを生み出すことになった。
「誰にでも、神から与えられた人それぞれの異なった人生があり、そこにはハードルがあって。そのハードルを一つ一つクリアしてこそ、最後に幸せをつかむことができるんじゃないですかね」
ケガによりオリンピック出場を断念するという大きな「ハードル」を課せられ、クリアしたからこそアクションスターとしての道が開けたのかもしれない。
とはいえ、千葉は役者人生をスタートさせてからも、決して順風満帆にスターへの道を歩んできたわけではない。「1度だけ完全にこの仕事を辞めようと思ったことがあってね‥‥」
映画でも主役を張るようになった20代半ばの千葉は、役者として文字どおり芝居にのめり込んでいた。いい作品を作ることだけを目指して時間を忘れて演技に没頭していた。その熱意がはからずも“身内”に敵を作ってしまうことになる。
「当時、東映の労働組合が会社と闘争をやっていてね。僕はそういうのにまったく興味がなかったんだけど『夕方5時になったら撮影を終える』とか、いろいろとうるさくてね。ある日、5時になったけど、あと2カットだけどうしても撮りたくて、『感情がつながっているのでやらせてくれませんか?』と撮影スタッフにお願いしたら、『これは規則なんだ。ヤメだ!』と言われて‥‥」
千葉は食い下がったものの、結局撮影は打ち切られた。ところが、話はこれで終わらなかった。
「次の日に、『千葉クン、キミは5時になっても仕事を続けようとしたらしいね』と当時の組合の委員長が僕のところに来たんだ。撮影の時間になっても、組合がどんなに大事かとか延延と説明するわけ。でも、僕も若かったし、監督の『そんなの終わってからにしてくれよ!』なんて“応援”もあって、『表に出ろ!』ってなっちゃって。揉み合っているうちに相手のスーツの袖がもげちゃったんだよ」
この一件が大問題に発展。「クビにしろ!」などと、東映の労働組合から吊し上げを喰らうことになった。まさに、千葉は窮地に立たされたのだ。