高校時代からスター街道を歩んできた「番長・清原」がクスリに溺れてオウンゴール。一方、同じ年に生まれ、同学年ながら、日の当たらないサッカー人生を送ってきたU-23日本代表の手倉森誠監督(48)は、「直感采配」でリオ五輪の出場権を獲得し、脚光を浴びた。
これまで世代別のアジア大会でベスト8の壁を突破できず、練習試合でもJ2京都やJ3町田に敗れ、「負け癖」がついていたサッカーの五輪代表。さして期待されてもいなかった中、リオ五輪最終予選を兼ねたアジア選手権が開幕すると、下馬評を一変、無傷で決勝まで駆け上がり、宿敵・韓国に大逆転で優勝したのだ“つまずき”から始まっていた。サッカージャーナリストの六川亨氏が話す。
「青森の五戸高出身で、86年冬の選手権では双子の弟・浩と一緒に出場してベスト8に進出。当時からずんぐりむっくりの体形なので、『キングコング・ブラザーズ』と呼ばれていました」
卒業後は日本サッカーリーグ2部の住友金属(鹿島アントラーズの前身)に入団。
「トップレベルの実力があったわけでもなく、真面目な選手ではなかった。二日酔いで練習したり、パチンコ屋に入り浸っては、チームメイトの“神様”ジーコが探しに来ると、パチンコ台の下に隠れて逃げていたそうです」(前出・六川氏)
Jリーグ開幕前年の92年にクビを宣告されると、青森での居酒屋経営を思い立つ。しかし、資金を増やすため向かった先は、中山競馬場。全財産の1200万円の半分を1日で使うと、翌日は600万円を1点買いして外し“オケラ”となる。命を絶つことも頭をよぎっていた時、NEC山形(モンテディオ山形の前身)からオファーが届き、改心してギャンブルを断ったという。
同世代で活躍する中山雅史(48)らが引退した時、監督としての経験値で差をつけておくため、28歳で現役を退き指導者に転身。山形、大分、仙台のコーチを歴任した。
「05年、ヴェルディ川崎出身で元日本代表の都並敏史さん(54)がベガルタ仙台の監督に就任しました。しかし成績が振るわず、そのたびに都並さんは『俺がヴェルディにいた時は‥‥』『ヴェルディでは‥‥』と口にしながら選手を指導し続けました」(ベガルタ仙台関係者)
しかし、コーチだった手倉森監督は、
「今の子に過去の栄光を話しても響きませんよ」
と、ピシャリ。選手の立場になって意見をぶつけていたという。
08年に仙台の監督に就任すると、優勝争いを演じるほどに鍛え上げていった。
「練習後はジャージ姿で仙台の繁華街に行き、店で会ったサポーターと酒を飲んでいました。試合に負けるとゲン直しで家のトイレと風呂を掃除して、汚れと負けをすっきり流していたそうです」(前出・仙台関係者)
「何があっても、俺はうまくいく」というのが口癖で、楽観主義者だったという。