秋本氏は高校卒業後、アニメ制作会社のアニメーターとなる。病気の母の看病のため、約2年で退社。投稿漫画家として過ごすが、母の死をきっかけに新人賞に応募した作品こそ「こち亀」だった。当時ジャンプは、ギャグ漫画の強化を図っていた。デビュー前には劇画志向が強かった秋本氏だが、編集者に、「ギャグで行こう」と言われて「こち亀」の連載を開始する。
あの小林よしのり氏が、「東大一直線」の連載を開始したのも76年。秋本氏を「同期」と呼ぶ小林氏が、当時を振り返る。
「秋本君とは担当が同じだったんです。今は集英社代表取締役になった堀内丸恵さんという人。当時、わしはまだ福岡に住んでたんだけど、堀内さんにくっついてなぜか秋本君も福岡に来て3人で『東大一直線』の取材に行ったりしてた。逆にわしが上京したら必ず3人でメシに行ったり。そうやって仲よくなりましたね」
その関係は今日まで続く。
出会った当初、秋本氏は口数が少なく、おとなしい青年だったという。しかし、ミリタリーなど趣味性の強いネタや、その時の流行を積極的に取り入れる「こち亀」を描くうちに、話の引き出しが増え、どんどん饒舌な人間に変わっていったと、小林氏は明かす。
「合作も何度かやりました。秋本君の仕事場に行くと、机の隅に栄養ドリンクの瓶が山積み。ようやく終わったら、ベッドをアシスタントとわしに譲って、秋本君は机に突っ伏して寝てたなぁ。特にギャグ漫画は、毎回アイデアをひねり出さなきゃいかんから大変なんですよ。秋本君から『もうやめたい!』ってグチを聞いたこともありました。それでも完結まで一度も原稿を落とさず、休載もなくて40年、200巻ですからね。偉業ですよ」
30周年の時には、06年5月号の「メンズノンノ」で「こち亀」の特集記事が組まれた。秋本氏は、
〈ちばてつや先生の下町の世界も好きだったので〉
と、「こち亀」の構想段階での秘話を明かしている。「あしたのジョー」(原作・高森朝雄)、「ハリスの旋風」「あした天気になあれ」など、ちば作品には下町を舞台にした名作が多い。ちばてつや氏に、「こち亀」の印象を聞いた。
「最初のペンネームを見た時は、ちょっといいかげんな人だなぁと、思ってしまいました(笑)」
当初、秋本治氏は「山止たつひこ」というペンネームだった。「がきデカ」の作者・山上たつひこ氏をもじったものである。山上氏本人からクレームが出たこともあり、100話目で現在の名前に。著書で秋本氏も、〈山上たつひこ先生に本当に申し訳ないことをした〉〈若気の至りとはこのためにあるような言葉です〉と、反省することしきりだ。
「『こち亀』は半分ギャグで半分ストーリー。個性的なキャラクターも次々と登場して毎回読み切り。そういう作品ですから3、4年も続くかな‥‥と、思って読んでたんです。ところがいつまでたってもおもしろさが落ちない。私も経験があるんですが、漫画家は長く続けているとどうしてもスランプが来る。彼にはそれがほとんど感じられない」(前出・ちば氏)
その秘訣は、秋本氏の“マンガ愛”だと、ちば氏は言う。顔を合わせると必ず漫画の話になるそうだ。
「『永井(豪)さんの作品のあのシーンがすごい』『安孫子さん(藤子不二雄(A))のこの場面のここがおもしろい』って、別の作家の何十年も前の1コマのことを細かく覚えてるんです。本当に真面目で漫画が大好き、漫画家の‥‥というより人間の鑑みたいな人ですよ」(前出・ちば氏)