65年12月4日、午後4時20分ごろ、編集部に「記事のことでお話ししたい」という男の声の電話があった。たまたま応対した平塚記者は、30分後、庄司竜太郎(29・当時)に会った。
アサヒ芸能1965年12月19日号では、
〈「いずれ近いうちに発覚すると思うが、ぼくは3カ月前(後の調べで4カ月前)に売春婦をしていた女房を殺して、コンクリートで固めてしまった。死体はアパートの押し入れに置いてある」
男の口から出た言葉は、とてつもない話であった。平塚記者は、自身の耳を疑った〉
男は、前に勤めていた会社の身分証明書を持ち出し、妻の氏名、本籍までもつけ加えた。
マユツバな話と編集部では最初そう判断した。彼は明日もう一度訪ねてきて、自首するといい残して帰っていった。しかし、彼は現れなかった。
翌12月6日、念のため、所轄の愛宕警察署に届け出、確認したところ、彼のいう妻の本籍、氏名、年齢まで一致したのだ。記者たちは裏付け調査に走り、元の勤務先にいた庄司の妻・鶴田由紀子さん(31)の妹に聞いた、ふたりが住んでいた目黒区のアパートに行った。
愛宕署に連絡し、カギのかかったドアをこじ開けたところ、大きなコンクリートのかたまりがあったのだ。
それと前後して、庄司は「自首するために」編集部に訪れ、殺人事件の全貌を告白した。そして午後7時前、かけつけた愛宕署員に任意同行された。
アサヒ芸能1965年12月19日号では、庄司告白の全貌を独占掲載した。
〈ぼくが由紀子と知り合ったのは3年ほど前、当時、由紀子は渋谷のガード下の屋台にいました。いわゆる屋台売春をしていたのです…。由紀子には男はなく、ヒモもいなかったのでズルズルと一緒になったのです(62年5月頃)…。
ぼくたちは、ほんとの夫婦でした。結婚すれば売春はやめてくれると思ったのです〉
しかし、庄司が会社から帰り疲れて寝てしまい、目が覚めると由紀子さんはいない、そんな繰り返しだったという。
庄司はトツトツとした口調で、事件当日の模様を語ってくれた。7月31日、朝早く江ノ島に海水浴に行き、8時頃、目黒のアパートに帰り、ビールを飲みはじめたという。
由紀子さんは「今日は仕事に出ないから」と約束してくれていたのだが、10時頃「これから行く」と言いはじめた。11時頃「出て行く」と言って暴れ出し、庄司にむしゃぶりついてきた。庄司は由紀子を殴り、思い余って腹巻で首を絞めてしまった、と告白した。
〈殺して2日後、由紀子は腐りはじめました。ぼくはすぐそばの建材店で家庭用の小袋セメントを6個と砂をバケツに4杯買いました。部屋にタライを持ち込み、モルタルを作り、由紀子を緑色の毛布に包み、押し入れにコンクリを流して乗せ、上からさらにモルタルを流してすっぽり固め、まわりを木の板ではりつけたのです。そして、押し入れに安置しました〉
庄司は由紀子さんの前に花や線香をときどき供えて、この4ヶ月を過ごしてきたという。
〈ぼくは何を書かれてもいいのです。が、由紀子は売春婦というだけで、悪く書かれるに決まっているのです。で、僕は週刊アサヒ芸能を通じて、真相を世間に知ってもらいたいと思ったのです〉
愛宕署の取調室で記者が庄司と一問一答を試みた際、彼は、
「栃木県の黒磯温泉で睡眠薬を飲んで投身自殺をはかりました。なかなか死ねないものですね」と述懐。かたわらの牧善次巡査部長が、「自殺などもう考えるな、後のことは心配しちゃいけない」と励ましたとき、口端を痙攣させて目が大きくうるみ、はじめて涙を見せた。