この「あさま山荘事件」の後、彼ら連合赤軍が12人もの同志をリンチ殺害していたという驚愕の事実が判明した。ローラー作戦で都内を追われた連合赤軍のメンバーは榛名山、迦葉山(かしょうざん)、妙義山といった群馬県内の山を“ベース”として渡り歩きながら、71年12月末からの約2カ月半のあいだに次々と同志を粛清していたのだ。
この凄惨なリンチの実態については72年3月23日号が詳しい。
〈「チ×でヤ×でブ×でヒ×、おまけに××で×××で色が××(中略)永田洋子の、あの陰険かつ冷酷残忍な振舞いは、こうした(中略)欠陥が、大いに影響しているじゃないかな」
と、これは主として彼女を中心に取材にあたってきた新聞記者氏の話である〉
そう書き出されるように、「総括」と称したリンチの主導者は永田洋子、それに森恒夫であった。永田は共立薬科大学卒業の活動家で、当時は27歳。森は大阪市大卒で、28歳であった。
リンチの模様はこう記される。元・早大生の山崎順(21)の場合──、
〈まず、森、坂東国男、植垣康博の3人が顔面を殴りつけ、坂口がアイスピックで山崎の心臓めがけて2度突き刺した。坂東、植垣もアイスピックで刺し「助けてくれェ」と哀願しながらくずれる山崎の体を引き起こし、さらに植垣と青砥幹夫が登山ナイフで心臓部を刺したが、山崎はうめき声を出し苦痛に耐えぬいた。これを見て森が青砥からナイフをもぎとり、心臓を突き刺し、数回にわたってえぐったという。さらに坂東と吉野が山崎の首にロープを巻き、力まかせにしめつけて絶息させたという〉
もちろん、陰険かつ冷酷といわれた永田洋子も残虐をきわめる。
〈ことに同性に対するリンチが陰惨だった。大槻節子(24)を“総括”した理由は、「仕事中にセックスした」のは「兵士にあるまじき、反革命的行為」だからだという。(中略)
永田によれば、妊娠することも「ブルジョワ的で、反革命的」なこと。妊娠8カ月の金子みちよ(24)はこれで粛清された。(中略)金子は針金を束ねたムチで永田にたたきのめされ、食事抜きで土間の柱に縛りつけられた。そして「オマエ、お腹の子はだれのガキなんだよォ。【夫婦関係にあった・注】吉野の子かどうかわかりゃしねェだろ。引きずり出してやろうか」(中略)
永田は夫婦仲のよかった山本順一(28)、保子(28)のむつまじさにも出目をむいた。
「テメエら、乳くりあうのもいいかげんにしろ。夫婦気取りで革命ができるか」
山本順一は、エビ固めにくくられてぶちのめされ、泣きわめきながらのたうち、舌を噛んで自殺した〉
革命集団は、警察当局に追い詰められるなかで、いつしかリンチを事とする無法者集団に堕していったのである。
連合赤軍のメンバーたちの供述調書に基づいた72年11月2日号の記事は、以上のようなリンチ(総括)について、こう述べている。
〈「総括」という名の人民裁判が行なわれるのは、必ずといってよいぐらい真夜中だった。
銃器を管理している幹部の部屋に突然呼び出し、いっさいの反論も許さず、一方的に追及するのがつねだった。
そのあとは決まって「兵士」の意識を強めるため」と、同志に対するリンチが幹部から強要された。
こうしてわずか1カ月のあいだに、12名の同志が総括で死んでいったわけである〉
もっとも、“革命”という時代遅れの夢に憑(つ)かれた彼らは「同志」を惨殺したことを全面的に自己批判したわけではなかった。右の記事は次のように、彼らの声を伝えている。
〈12人もの同志を殺害したことは、単なる殺人鬼の行動ではない。共に闘おうという意識が強かったため、革命の達成を急ぎすぎ、銃による党建設をはたそうとしたための誤りだ。山を逃げ出すものがあるのではないかという不安が支配していたため、12人もの同志を殺してしまった。
もう一度くり返すが、この事実を(中略)異常者の単なる犯行にしてはならないと思う〉
閉ざされた世界はそうした心理を生みやすいとしても、しかし、そうした声は一般社会に受け入れられるものではなかった。それによって、新左翼運動を好意的に見ていた一部の人間も一気に彼らから離れていった。
ただし、このリンチ事件で“革命ごっこ”の動きがすべて潰えたわけではなかった。74年8月30日には東アジア反日武装戦線「狼」による三菱重工ビル爆破事件が起き、8人が死亡。75年3月には中核派の最高指導者・本多延嘉(ほんだのぶよし)が就寝中、マサカリで頭をかち割られるという凄惨な内ゲバも起きている。
ちなみに、連合赤軍の森恒夫は73年1月、東京拘置所で首吊り自殺。永田洋子は死刑囚として収監されていた東京拘置所で脳腫瘍のために獄中死している(2011年2月)。