中尾ミエ、伊東ゆかりとともに「スパーク3人娘」の一員としてブレイクした園まり(73)。今も3人で全国を回るが、記念すべき初紅白で事件は起きていた。
同じ渡辺プロで、それぞれがソロ歌手でありながら、売り出しのために組んだユニットが「スパーク3人娘」だ。リーダー格の中尾ミエが62年にいち早く「可愛いベイビー」で初出場を決め、翌63年に園まり、伊東ゆかりが続いた。
「紅白には3人娘としての1枠で、それぞれの持ち歌を1曲ずつのメドレーという形でした。私はタンゴのカバー曲『女王蜂』を歌ったんですが、なぜか会場がざわついているんです」
当時の紅白は緻密な演出プランがなく、中尾と伊東が園まりの横で、アドリブで踊りだした。
「あの『女王蜂』はダンスするような曲じゃないんですが、それでも踊ったの。私、キョトンとしちゃって横目で見たら、いつの間にかお客さんにウケていて、カメラもほとんどそっちを映しているんですよ。私の顔はほとんどアップにならず、やっと大写しになったと思ったら、思いっ切りムッとした顔でした」
この映像は現存しており、紅白の特集番組などでたびたび使用されている。
「04年に再結成した時に、2人には『すごくムッとしたわよ、初出場なのにほとんど映らないんだから』って言いました。ただ、その日の放送後に、ゆかりさんはNHKの人にすごく怒られたみたい。なぜかミエちゃんは、貫禄があるからなのか、おとがめなしだったみたいだけど(笑)」
翌64年も3人娘で「夢みる想い」を歌って出場したが、65年からは完全に一本立ち。大ヒットした名曲「逢いたくて逢いたくて」を歌っているが、実は異例の選曲だった。
「もともと先輩のザ・ピーナッツが歌っていた『手編みの靴下』をアレンジした曲ですけど、この年にはまだレコードになっていないんです。紅白は今でも未発表の曲は歌えない不文律がありますが、あの年だけはなぜかOKでした」
もともとピーナッツのレコード曲であること、日劇のステージでファンにも親しまれていたこと、さらに紅白と縁の深い作曲家・宮川泰の作品であったことなどが理由とされる。
翌年1月にレコードが発売されると、瞬く間にミリオンセラーを記録。紅白は、曲のプロモーションの上でも効果を発揮した。
「紅白を見ていらした宮川先生が『新しいタイプの歌手が出てきたな』と思われたそうです」
園まりのささやくような歌い方は多くのファンを獲得し、ブロマイド売り上げも1位を独走。66年には、のちに藤圭子らがカバーした「夢は夜ひらく」の元祖として紅白に美声を響かせる。後半のトップバッターという大役を任され、客席から登場する演出だった。
その後も計6度の連続出場を誇ったが、69年にまさかの落選に。
「この年、ゆかりさんは初めての司会だったんです。3人で出ようねと誓い合ったんだけど、私だけ落選‥‥。当選確実とマスコミにも言われていただけに、これはショックでしたね」
今のように出演者の拒否が相次ぐ時代ではなく、歌謡界のど真ん中に「紅白」が君臨した時代の1コマであった。