政治利用がいろいろ取り沙汰された平昌冬季オリンピックの中で、ひときわ注目されたのが、北朝鮮の「美女応援団」だった。
応援団が別に「美女」である必要はないが、「美女」が揃っているからこそ注目を集めたことは事実で、政治的アピールとしては、ただの「応援団」よりも「美女応援団」のほうが効果的だったと言えるのだろう。
しかし、そもそも「応援団」という存在自体が、スポーツの世界ではかなり異色の存在と言える。
というのは、ヨーロッパで人気のあるフットボール(サッカーやラグビー)では、観客が声を揃えて歌を歌うことはあっても、前に立って声援を指揮する人々──すなわち応援団(のリーダー)は存在しない。
アメリカのスポーツではバスケットボールやアメリカンフットボールには応援団(チアリーダーやチアガール)が存在するが、ベースボールには存在しない。
それに対して日本では、野球やサッカーをはじめ、あらゆるスポーツのシーンに応援団が顔を出す(韓国や北朝鮮、中国や台湾も同じだ)。が、大相撲に応援団は現れず、相撲や柔道や剣道など、武道の試合会場でも応援団による揃った応援は(滅多に)見られない。
こうして見ると、応援団の存在するスポーツと存在しないスポーツの間には、明確な「違い」が存在することがわかる。
それは、各スポーツ競技の歴史の長さの違いだ。
ヨーロッパのフットボールやアメリカのベースボールや日本の武道のように、スポーツとしての組織やルールがキチンと整う以前から(すなわち近代以前から)競技が存在していたスポーツには応援団やチアリーダーは存在せず、近代になって以降に諸外国から輸入されたり、新しく創られたスポーツ(アメフットやバスケ)には、応援団やチアリーダーが存在するのだ。
これはなかなか面白い現象と言える。
スポーツ学者の故・中村敏雄氏によれば、近代以前の組織やルールが確立していない時代の競技(スポーツ)には「飛び入りの自由」が存在したという。
村中の男たちが全員で参加していたフットボールはもちろんのこと、ベースボールでも腕に自信のある人は、俺に一発打たせろ(一球投げさせろ)と言って「飛び入り」することができた。また村は町の力自慢や剣の使い手も、「飛び入り」(や道場破り)で相撲や柔術(柔道)や剣術の手合わせを求めることができた。
そのような長い歴史の後に近代になってスポーツとしての組織やルールを整えた競技では、その競技を「見る人」たちが「やる人」たちよりも実力で劣っている(「飛び入り」しても負ける)ことを暗黙のうちに自覚していることになる。
だから温和しくスポーツを見、個別に応援することができるのだが、近代以降になって輸入されたり創作されたスポーツには「飛び入りの自由」の歴史がなく、最初からスポーツを「やる人」と「見る人」が分離している。そこで「見るだけの人」の欲求不満が募り、「見る(応援する)専門家」としての応援団を組織するようになった、というわけだ。
最近は大相撲でも力士の四股名が書かれたボードを持ち、声を揃えて応援する「応援団」を見受けるようになった。が、その多くが女性(相撲女子)であることは、「飛び入り」のできない競技が応援団を生むことの証拠とも言えそうだ。
北朝鮮の「美女応援団」も、どう見ても「飛び入り」するような人たちには見えない。おまけに目の前のスポーツ選手に声援を送っているようにも見えない。彼女たちが声を揃えて応援しているのは、「首領様」であり「将軍様」であり「金正恩同志様」だけなのだろう。
玉木正之