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“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<最終回>甲斐バンド(2)
西田四郎が甲斐の存在を知ったのは、チューリップの財津和夫から渡された1本のテープである。そして財津は告げた。「すぐにウチと契約したほうがいいよ」甲斐の獲得を巡っては、吉田拓郎やかぐや姫を擁した「ユイ音楽工房」も名乗りを上げた。それを「シンコ…
芸能
“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<最終回>甲斐バンド(1)
日本のロック史において、比類なき存在感を誇ったのが甲斐バンドだ。傷つき羽根折れそうな思いを詞に込め、強靭なサウンドとともに雄々しく立ち上がる。やがて前例のないライブ会場を次々と制覇し、後進たちに多大な影響を与えた。そして、誰よりも博多の街を…
芸能
“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第4回>海援隊(2)
東京でのお披露目となる日比谷野音での合同コンサート直前、武田は迷った末に博多の野見山に電話を入れた。「迷うとっとです。ステージは標準語でしゃべったほうがいいのかって。ここは俺らが生きるか死ぬかの瀬戸際ですけん‥‥」重ねて言うが72年当時、九…
芸能
“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第4回>海援隊(1)
日本において、最もポピュラーな「博多弁」のイメージは武田鉄矢であろう。今から40年前、武田が海援隊として世に放った「母に捧げるバラード」は、その魅力を知らしめた歌である。ただし、ヒット曲の後に決して順風ではなかった道のりを、彼らはいかに乗り…
芸能
“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第3回>長渕剛(2)
西田は長渕とともに、博多にあるヤマハ系列のスタジオをデモテープ録りに使っていた。「その近くのそば屋から出前を取っていたんだけど、それを運んでいたのがデビュー前の永井龍雲だったんですよ」龍雲は長渕と同じ78年にデビューし、翌年にはグリコのCM…
芸能
“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第2回>チューリップ(3)
再びチューリップのデビュー期に話を戻したい。業界中が絶賛したメジャーデビュー曲「魔法の黄色い靴」(72年6月)は、期待に反してさっぱり売れなかった。続く「一人の部屋」(72年9月)も同様で、前述のように草野社長から「ダメなら帰れ」の最後通告…
芸能
“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第2回>チューリップ(2)
73年に「コーヒーショップで」でデビューしたあべ静江は、山口百恵や桜田淳子、アグネス・チャンと同年の新人賞を争った。百恵がホリプロ、淳子がサンミュージック、アグネスが渡辺プロと“王道”であるのに対し、あべは「シンコーミュージック」という音楽…
芸能
“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第2回>チューリップ(1)
日本で初めて本格的に「ポップス」と取り組んだバンド──それがチューリップである。結成から40年以上が経っても名曲は色あせず、今も鮮烈に“青春の光と影”を映し出す。その背景には、彼ら自身が博多から上京し、もがき続けた日々が重なり合うのだ。「お…
芸能
“日本のリヴァプール”博多スーパースター列伝<第1回>井上陽水(1)
その街は「日本のリバプール」と呼ばれ、全国のスカウトマンが“原石”を探しにやって来た。日本でも稀有なスターの産地、それが「博多」である。70年代のフォーク&ロックに始まった潮流はアイドルや演歌にも幅を広げ、今なお宝庫として君臨する。そんな歴…