西田四郎が甲斐の存在を知ったのは、チューリップの財津和夫から渡された1本のテープである。そして財津は告げた。
「すぐにウチと契約したほうがいいよ」
甲斐の獲得を巡っては、吉田拓郎やかぐや姫を擁した「ユイ音楽工房」も名乗りを上げた。それを「シンコー・ミュージック」が制したのは、西田は自分の才覚と思ったが、やはり博多の先輩である財津の存在が大きかったようだ。
そんな甲斐と西田が初めて顔を合わせた日、年上に向かって「これが西田四郎か」と呼び捨てたのはファンの間では有名な話だ。
「全然、驚かなかったよ。あいつらしいなと思った。セルフプロデュース力を持っていたし、甲斐を前面に出すことがバンドを売ることだと思ったよ」
当初は「甲斐よしひろバンド」にしたいと思っていた。その頃、「太陽にほえろ!」のテーマを手掛けた井上堯之バンドが台頭したこともあってだが、最終的には、より緊張感を持った響きの「甲斐バンド」に着地する。
さらに西田が考案したキャッチコピーは、業界中に波紋を呼ぶ。
〈九州最後のスーパー・スター〉
陽水やチューリップの成功以降、音楽業界の目が博多を中心とした九州に向けられたのは事実だが、西田は「歌謡畑の小柳ルミ子まで同列にくくられること」に我慢がならなかった。
「だから『九州最後』って言い切っちゃったんです。ただ、KBCの岸川さんには『これはないぞ、これで打ち止めかい?』って怒られましたね」
上京した甲斐、長岡、ギターの大森信和、ドラムの松藤英男は、高円寺の2LDKのアパートで共同生活を送る。夜中にギターを弾いて曲を作ったり、それぞれのアイデアを出し合ったり、とてもまとまっていたと長岡は言う。
博多から出てきた若者が東京で価値観の違いや新たな人間関係にぶつかる。その葛藤から曲が生まれ、詞を書く。長岡は、当時の甲斐が書く「もろさもすべてさらけ出した歌詞」がとても好きだった。
74年11月5日、待望のデビュー曲である「バス通り」は、最高位65位の売上げ。新人バンドとしては及第点だが、事務所の総帥である草野昌一には、成功のうちに入っていないという態度を取られた。
甲斐は一念発起し、甘酸っぱいフォーク調のデビュー曲とは違うハードなタッチの「裏切りの街角」(75年6月)を書いたが──、
「これは‥‥売れないな」
長岡は、試聴した草野の一言を忘れない。
「冗談じゃないってメンバーもマネジャーも燃えに燃えた。俺たちの手で、これは絶対に売ってみせようと誓い合った」
1日も休まずキャンペーンやコンサートに走り回り、やがて「裏切りの街角」は長い時間をかけてチャートの7位まで上昇。その後、しばらくはシングルヒットに恵まれなかったものの、アルバムセールスとライブ動員には定評があった。
「俺たちは日本初のスタジアムバンドになるんだ!」
当時のメンバーに口ぐせのように言っていたと、筆者は甲斐自身から聞かされたことがある。