西田は長渕とともに、博多にあるヤマハ系列のスタジオをデモテープ録りに使っていた。
「その近くのそば屋から出前を取っていたんだけど、それを運んでいたのがデビュー前の永井龍雲だったんですよ」
龍雲は長渕と同じ78年にデビューし、翌年にはグリコのCM曲「道標ない旅」をヒットさせる。第1期の陽水やチューリップ、海援隊や甲斐バンドに続き、福岡を注目させた「第2世代」ということになる。いわゆる“ご近所のバイトの兄ちゃん”がデビューを飾るほど、当時の博多が高いレベルにあったことがうかがえる。
こうした一群にあって西田は長渕と親友になっていくが、その最たる理由は「お互い恋愛体質だったから」と笑う。
「途中からロック色を強めていったけど、初期の剛の詞の世界がすごく好きだった。女言葉で書いた詞が多かったけど、その中に男気もしっかりとあった」
後に西田はMISIAを指導する際に、ひたすら「詞を書け」と強調する。当時のMISIAはセリーヌ・ディオンなどの洋楽しか歌わなかったが、まず日本語で歌うこと。そのためには自分で詞を書くことが必要と説いたのである。
長渕もまた、初のアルバム「風は南から」(79年3月)の制作からこだわりを見せた。アレンジなどはスタッフに託しても、詞に関しては一切の意見を聞き入れなかった。シングルのチャートインよりもアルバムのほうが先に売れたのは、こうした世界観が受け入れられたことを意味する。
やがて長渕は「順子」(80年6月)のナンバーワンヒットで全国区の人気を獲得。西田は残念ながら歌手として飛躍することはなかったが、それでも親友はチャンスを与えてくれた。
「剛が主演した『家族ゲームII』(84年、TBS)に、僕がくすぶっているからって『一緒に出るか』って言ってくれてね。博多から出てきたヤクザって役をもらいました」
長渕は俳優としての活動から志穂美悦子と知り合い、87年に再婚する。西田が2人の棲み家を訪ねると、いつも志穂美の手料理でもてなしてくれた。
そしてその家で、ある日、奇妙なものを見た‥‥。
「剛が再婚してすぐにレコ大のアルバム大賞を獲ったけど、その時の賞状を額に入れるでもなく、トイレの壁に無造作に貼ってあるんだ。それは『こんなもん、クソ食らえ!』ってシャレなのか、それとも『俺はもっと上を目指す』って反骨精神だったのかは教えてくれなかったけど」
その日から2年ほど前、西田は心身ともに疲弊した長渕を博多の地でかくまったことがある。体調不良からコンサートを何本もキャンセルし、うつ病まで発症した日々である。
「剛をよろしく頼む」
長渕の事務所の社長から西田はそんな声をかけられていた。長渕の音楽人生でも最も暗黒期ということになる。
その端緒となった86年1月の武道館の2階席に筆者もいた。あまりにも客入りが悪いので、主催者側から配られた大量の招待券を手にしてのことである。あれだけライブの評価が高かった男が15分ほどの休憩を入れ、歌のキーも通常より下げている。何より、その体は今にも倒れそうなほど痩せこけていた。
「お前たちの明日だろ。ほら、来いよ!」
フラフラの長渕に代わって客席を鼓舞していたのが、もう1人の盟友・浜田良美であった──。