日本のロック史において、比類なき存在感を誇ったのが甲斐バンドだ。傷つき羽根折れそうな思いを詞に込め、強靭なサウンドとともに雄々しく立ち上がる。やがて前例のないライブ会場を次々と制覇し、後進たちに多大な影響を与えた。そして、誰よりも博多の街を愛したバンドだった──。
「この男たちと契約できたことが誇らしいと思ったよ。自分がマネジャーとして才覚があるんじゃないかと勘違いするくらいにね」
甲斐バンドのチーフマネジャーを務めた西田四郎が言う。それは74年8月31日、福岡電気ホールで行われた「出発〈たびだち〉コンサート」を観ての素直な感想だった。
博多のライブ喫茶「照和」で名を馳せていた甲斐よしひろは、この日もデビュー前だというのに約2000人を動員。79年に甲斐バンドを脱退するまでベースを担当した長岡和弘が言う。
「博多という街は東京からプロのアーティストが来ても満杯にならない。むしろ僕らアマチュアのほうが動員力もあったし、自分たちでライブも運営していた」
井上陽水、チューリップ、海援隊に続く“博多発”のスターとして甲斐が注目されたのは、文化放送主催の「第3回ハッピー・フォーク・コンテスト」で優勝してから。まだバンド結成以前ではあったが、長岡はサポートメンバーとして中野サンプラザに同行していた。そして、事件が起こった。
「ホテルには東京の音楽仲間も来て、10人以上でワイワイやっていた。で、副賞の『カップヌードル1年分』をもらったんだけど、部屋にはガス台がない。ふと誰かが『バスタブにお湯を張って全部まとめて作ろう』と言い出したんです」
悪気があったわけではなく、単に無邪気だった“蒼”の季節‥‥。ただし、麺が排水口をふさぎ、浴槽が油まみれになった。
「お前たち、なんばしよっと!」
声を荒らげたのは彼らの引率役だった岸川均である。KBC九州朝日放送のディレクターとして多くのミュージシャンを見出したが、とりわけ甲斐にとっては、岸川が06年に亡くなるまで慕い続けた恩師である。このホテルでの惨事も、岸川が若いメンバーに代わってホテル側に謝罪してくれたと長岡は記憶する。
博多では他にもRKBの野見山実やTNCの藤井伊九蔵が、まるで父親のように若者たちの面倒を見た。さらに、博多特有の文化も貧しい若者たちの味方だったと長岡は言う。
「例えば『照和』は1日2ステージのギャラが1400円。それをバンドのメンバーで割ったらバス代にしかならない。夜が遅くなってバスを逃したら、天神に並ぶ屋台で音楽談義をしてました。当時は天ぷら定食が200円で、おばちゃんたちが商売抜きでたくさんの量を出してくれましたから本当に助かった」
甲斐が愛した「喜柳」という屋台を、筆者も1度だけ訪ねたことがある。山盛りの天ぷらとおでんにビール、そして何よりも女将の「どこから来たと?」の笑顔に、長旅の疲れを解きほぐされた。
よく「ケンカしているようにしか聞こえない」と言われる博多弁であるが、人のつながりは日本でも有数である。それでも、そんな住みやすさを捨てて──
〈九州少年〉の甲斐たちは「東京」という街に向かった。