まもなく73歳の誕生日を迎える「永遠の清純派スター」が、精力的に全国を回っている。通算120作目となる出演映画「北の桜守」のキャンペーンのためだ。ベールに包まれた顔、そして今なお熱狂的な「サユリスト」を持つカリスマ。この節目に至るまでいかなる道を歩み、どんな「この先」が待っているのか──。旧知の作家が秘史の扉を開く。
「まみさんと私は赤い糸で結ばれているんです」
吉永小百合(72)がそう挨拶したのは、1990年6月に東京・銀座で催された私、中平まみの作家デビュー10周年の宴の席。78年9月、元日活映画監督で、小百合主演の映画を何作も撮った私の父・中平康の葬送の場で会って以来の対面だった。
熱烈な「サユリスト」、そしてファンクラブの会員でもあった私は、自宅に招いたりはもとより、手紙、ファクス、時には取材などで、ある時まで小百合と交流を重ねてきた──。
11歳でラジオドラマ「赤銅鈴之助」の声優として芸能界デビュー、15歳で日活に入社した小百合の女優としてのルーツは、子供時代にある。小学生の時、医療少年院に出向いての学芸会の劇。そこでお母さんウサギの役を演じたら、少年たちが涙を流して見てくれた。それが最初の快感、カタルシスを覚えた体験だった。
日活入社前、初めての映画出演は、「朝を呼ぶ口笛」(59年・松竹)。新聞配達少年を励ます少女の役だったが、この頃、吉永家は貧しく、米びつがほとんど空になることもあったほど。まさしく極貧だったのだ。だから税務署が自宅に、家財道具などを差し押さえる赤札をベタベタと貼りに来たことも。
そんな生活の中で、小百合は芸能活動を開始し、文字通り、家計を助けていた。吉永家は、彼女の支えがなければどうなっていたことだろう。
そして父親の知人が日活の上層部にいた縁から、小百合は面接を受けに行くことになる。中学の卒業式の日、駅の公衆トイレで着替えた小百合は、精一杯大人っぽくしようとして口紅を引き、黒いタイトスカートに赤いブラウス、ハイヒールで向かったという。
日活に入社すると、年に十何本という猛烈な映画出演契約が待っていた。まだ接吻も知らない頃、台本にキスシーンがあり、自宅に帰って玄関でワーワー泣いたこともあった。結局、その監督は「この子にはやっぱり(キスシーンは)無理だ」と言って、やめることになる。
私が思うに、小百合のピークと言っていいのは、まだ20歳前後だった「若い人」(62年)、「泥だらけの純情」(63年)、「光る海」(63年)あたりの頃(ちなみに後者2作品は、私の父が監督)。
当時、共演した浜田光夫(74)とは「純愛コンビ」と銘打たれ、随分と話題になった。お互いが演技をしやすいピッタリの相手であり、二人が組み合わさると、シリアスなものから喜劇っぽいものまで、その相乗効果はすごかった。いい作品といい役に恵まれ、日活も力の入れようが違う。とにかく小百合を売ろうと懸命だった。だから小百合もどんどん成長していったのだ。そう、あの「事件」が起きるまでは‥‥。
小百合は「愛と死の記録」(66年)で浜田と共演するはずだった。ところが──。
酒好きの浜田が先輩俳優とロケ先で飲みに出かけた際のこと。その先輩が酔っ払いに絡まれ、電気スタンドで殴りかかられた。その時、電球の破片が浜田の眼球を直撃。病院に担ぎ込まれた浜田に、医師は「眼球摘出だ」と言う。浜田は当然、「いや、それだけは勘弁してほしい」と。
小百合が病室に見舞いに訪れると、浜田の顔は包帯でぐるぐる巻き。想像を超える姿に、小百合は大きなショックを受けたのだ。
浜田は「愛と死の記録」を降板。代役に起用されたのが渡哲也(76)だった。
小百合は貴重な相棒を失った。浜田はその後、復帰したが、もう以前のようではなかった。本人曰く、
「目で訴えかける演技ができなくなった」
中平まみ(作家)