それにしてもなぜ、有働アナは取材現場にこだわるのか。その「原点」にあるのが、ほかならぬ星野氏の存在だったというのだ。星野氏を知る芸能事務所関係者が証言する。
「そもそも有働アナと星野氏が親しくなったのは、97年から02年まで担当していた『サンデースポーツ』と『サタデースポーツ』のキャスターを務めていた時期。星野氏も闘将として中日、阪神の監督を歴任した脂の乗った時代と重なっており、インタビューを通じて意気投合。当時、有働アナはスポーツ選手からなかなか本音を聞き出せないことのイラだちを直接、星野氏にぶつけたこともあったそうです。すると『徹底的に取材相手を調べて具体的に質問しろ』『遠巻きに質問するのではなくストレートに聞けばいい』といった取材のノウハウについて、酒を酌み交わしながら薫陶を受けた。その結果、口下手なスポーツ選手の本音を聞き出すスポーツ番組がライフワークとなっていき、98年の長野から04年のアテネまで五輪のキャスターを担当するほどの存在になったのです」
その後、ニューヨーク支局に赴任するなど、スポーツの現場を離れたものの、思いは捨てがたく、「あさイチ」のキャスターに就任していたにもかかわらず、14年のリオ五輪では幹部に直談判。キャスターに就任した経緯があるのだ。
「星野氏との関係は、00年に一部で結婚報道が出るほど。親密だったのは間違いない。ところが、当事者同士はマスコミに騒がれるようになってからは、徐々に疎遠になっていった。それでも有働アナにとっては、星野氏は師匠のような存在。仕事で迷いが生じた時、星野氏が生前にたびたび言っていた『夢にチャレンジしているか?』という言葉を思い出し、奮起する原動力になっていたそうですから」(星野氏を知るプロ野球関係者)
さらに、2年後に控えた東京でのオリンピックへの思いも退社へと拍車をかけた。NHK関係者が明かす。
「現場主義の有働アナは、年齢的にも50代になりNHKの幹部でありながら五輪キャスターに就任するというのは現実的には不可能だと考えていた。彼女にとっては、思い入れのある五輪取材で、現場のジャーナリストとして関わりたいという希望が、星野氏の逝去で強くなったのではないか」
まさに夢に向かって一歩を踏み出した有働アナにとって、星野氏の「遺言」とも言える金言が退社に踏み切る大きな引き金だったというのだ。