春夏の甲子園史上、初めて優勝旗が関門海峡を渡ったのが、戦後2回目の夏の選手権となった1947年の第29回大会だった。その快挙を成し遂げたのが、同年春の選抜準優勝校・小倉中(現・小倉=福岡)である。チームの中心となったのは、エース・福島一雄(早大ー八幡製鉄)。流れるような投球フォームから放たれた速球は“ホップした”と称された。
GHQが接収していた甲子園球場での7年ぶりの開催となったこの大会。福島擁する小倉中は初戦で神戸一中(現・神戸=兵庫)に9‐3と大勝して勢いに乗ると、続く桐生中(現・桐生=群馬)を3‐0、志度商(現・志度=香川)を6‐1と撃破してベスト4へと進出。準決勝では石原照夫(元・東映)擁する成田中(現・成田=千葉)との一戦。試合は福島と石原という両投手の投げ合いとなり、1‐1の投手戦で延長戦へと突入。その10回表に小倉中に2本のランニング本塁打が飛び出し、5‐1で振り切った。こうして小倉中は、夏の選手権史上、九州勢初となる決勝戦へと駒を進めることとなったのである。
迎えた決勝戦。東海の名門・岐阜商(現・県岐阜商)との対戦となった。2回裏に3点を先制されたが、5回表にまず1点を返すと、続く6回表に長打攻勢と2つのスクイズを絡めて逆転に成功。7回表にもダメ押しの1点を加えて6‐3で勝利。この年の小倉中はバントあり、強攻策ありの自在性が攻撃の特徴。それに福島の落ち着いたピッチングが加わった結果が優勝という形となって表れたのである。こうして深紅の大優勝旗は関門トンネルをくぐり、小倉駅へと到着。駅では大観衆がナインを出迎えていたのだった。
その翌年春。学制改革により中等学校野球は新制高校野球となった。福島を擁する小倉中も新制・小倉高校として選抜に出場したが、初戦でこの大会の優勝校となる京都一商(現・西京)に延長13回の激闘の末、2‐3で惜敗。雪辱と連覇を期して出場した同年夏の選手権第30回大会で、福島の右腕が冴えに冴え渡ることとなる。それはまさに“針の穴を通す”と言われた神業の投球であった。
初戦の丸亀戦を2安打完封の1‐0、2回戦の大分二(現・大分商)戦も2安打完封の12‐0、準々決勝の関西(岡山)戦を4安打完封の2‐0、準決勝の岐阜一(現・岐阜)も4安打完封の4‐0。そして決勝戦の桐蔭(和歌山)戦でも4安打完封の1‐0。何と39年第25回大会の海草中(現・向陽=和歌山)の嶋清一以来、史上2人目となる5試合連続完封で夏の選手権2連覇を果たしたのである。
そして、その翌年の春夏も福島擁する同校は甲子園へと戻ってきた。しかし、この時すでに福島の黄金の右腕は燃え尽きていた。春は準決勝で芦屋(兵庫)に0‐4で、夏は準々決勝で倉敷工(岡山)に延長10回6‐7のサヨナラ負けを喫している。実はこの最後の試合の後、福島はそっとユニフォームのポケットにマウンドの土をしのばせた。これが一説には今日の、球児が記念に“甲子園の土”を持ち帰る儀式の第一号とされているのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=