大会4日目の第4試合に徳島県勢の鳴門が登場する。四国のチームには野球が盛んで強いというイメージがあるが、実は徳島県のチームは今まで夏の選手権で1度しか優勝したことがない。
その1度が1982年の第64回大会。攻撃的な野球スタイルから“攻めダルマ”と称された名将・蔦文也監督が率いた池田である。
この大会、優勝候補は“甲子園のアイドル”荒木大輔(元・ヤクルトなど)を擁して5季連続出場を果たしていた早稲田実(東東京)と、この池田だった。池田のエースは四国の剛腕と呼ばれた右の本格派・畠山準(元・横浜など)。畠山は4番打者でもあり、まさにチームの要だった。この畠山擁する池田は初戦で好投手・大久保学(元・南海)と対戦。これを5‐2で下すと、日大二(西東京)に4‐3、都城(宮崎)に5‐3で勝利してベスト8へと進出する。この間、目を引いたのがエース・畠山の投球よりも豪快なチームの打撃力であった。池田攻撃陣から一振りごとに発せられる金属バット音はあまりの凄まじさから“山びこ打線”と命名されるほどの破壊力を秘めていた。中でも2回戦と3回戦では9番の山口博史が2試合連続本塁打をマークしたことから“恐怖の9番打者”とマスコミが命名、恐れられる存在となっていた。山口は2年生だった前年のチームでは5番を打っていたため、池田ナインにとってその打力は、まったく驚きではなかったという。
そしてそのパワーが全開となったのが準々決勝である。対戦相手は早実。なんと東西の優勝候補がここで激突したのだ。この対戦が決まった時、池田ナインは負けを覚悟。畠山によれば「僕以外の3年生はみんなお土産を買いに走ってました」と言うほど帰る気満々だったというが、試合は序盤から意外な展開を見せたのである。なんと1回裏の攻撃で2年生の3番・江上光治(早大-日本生命)がライトスタンドへ特大の先制2ランを放ったのだ。この大会、ここまであまり当たっていなかった江上の一撃に池田ベンチは盛り上がった。5‐2とリードしていた6回裏には江上と同じ2年生だった5番・水野雄仁(元・読売)にバックスクリーンへの特大2ランが飛び出して7‐2。7回裏にも無死からの連打でついに荒木をノックアウト。その後、替わった石井丈裕(元・西武など)から8回裏に水野が2打席連続となる満塁本塁打を放つなど一挙7得点。終わってみれば14‐2の圧勝であった。この後、池田は準決勝の東洋大姫路(兵庫)戦に4‐3で勝利してついに決勝戦へと進出。その決勝戦で再び猛打が炸裂することとなる。
相手は古豪の広島商だった。池田打線は初回簡単に2死を取られたが、3~5番の3連打で満塁とすると押し出しの四球。さらに下位打線に3連続の適時長短打が飛び出して一気に6点を先取したのである。5回表にも1点を追加すると、続く6回表にはまたも2死無走者から怒濤の7連打が飛び出して一挙、5点。これを畠山の力投で広島商打線に2点しか許さなかった。12‐2の粉砕劇だった。実は池田の蔦監督は過去に春夏の甲子園決勝で2度、惜敗していた。まさに“3度目の正直”で全国の頂点に立ったのである。池田はこの翌年も春優勝、夏はベスト4と、高校野球に一時代を築くこととなる。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=