そんな両者の関係が急転直下し、謀反につながっていった理由は、信長の外交政策にあったという。
唐入り、すなわち中国(当時は明)への進出である。変の3年前、1579年に、イエズス会アジア地区責任者の巡察師・ヴァリニャーニが来日し、少なくとも4回、信長と面会した記録がある。
「その時にヴァリニャーニの通訳を務めたルイス・フロイスが記した『日本史』には、次のような記述があります。『信長は毛利を征服して天下統一したら、一大艦隊を編成して明を征服し、諸国を自分の子たちに分かち与えようとした』。十年後に豊臣秀吉が実行した唐入り(朝鮮出兵)は、もともと信長の計画だったのです」
明智氏によると、本能寺の変の直前に、光秀は信長からこの計画を聞かされた可能性が高いという。
変の5カ月前の1582年1月、光秀は博多の商人で茶人でもある島井宗室や、堺の商人・茶人である銭屋宋訥を近江(現在の滋賀県)の坂本に招き、茶会を催している。彼らとの茶事の記録はそれまでになく、この時が初めてだったと思われる。明智氏によると、彼らをただの商人ではなく、軍需商人と見れば、この時の茶会は非常に重要だったことがわかるという。
「のちに秀吉が唐入りの準備をした際、最初に呼び寄せたのが島井宗室です。明侵攻の兵站基地となる港として、博多の整備が不可欠だったからです。同様に、この時、唐入りの準備を始めていた信長も、自分に代わって戦略参謀の光秀を宗室に会わせたのです」
つまり、この時点で光秀は、唐入りの計画を信長から聞かされていたと考えられる。同時にこの計画は光秀に大きな衝撃を与えた。
「その衝撃は光秀の前半生を解明しないと理解できない。詳しくは著書を読んでいただきたいのですが、ひと言で言えば、光秀の氏族が土岐氏であったことが大きな意味を持つのです」
土岐氏の発生は、今から八百数十年前、源頼光の子孫・光衡が美濃(現在の岐阜県)の土岐川流域に土着して土岐氏を名乗ったことから始まる。南北朝動乱期に四代・頼貞が美濃守護となり、その孫の頼康が尾張(現在の愛知県)、伊勢(同三重県)の守護を兼務して最盛期を迎えた。
その間、土岐一族はそれぞれ拠った地名を名字に冠した。明智荘に拠った明智氏もその一つだった。
しかし、1552年、土岐氏最後の守護・頼より芸のりが斎藤道三によって美濃を追われ、土岐氏は没落していった。
「光秀の前半生は、土岐氏再興を胸に秘めながら、苦難の連続でした。上洛後、信長に仕え、土岐氏再興の道筋が見えてきたやさきに唐入りとなれば、現地へ行かされる一族は死滅する。一族生存への責任を果たすためには、一刻も早い時期に謀反を起こして止めるしかない。単なる恨みつらみが原因ではなかったと考えるのが妥当なんです」
光秀の出自や、上洛までの前半生に関する資料は、現在のところ「ない」とされている。だが明智氏は、「ない」からといって存在しないわけではないと言う。
「2014年に『本能寺の変』直前の状況に関する二つの資料が発見されましたが、いずれも、存在しながら死蔵されていた文書でした。光秀の出自や前半生に関しても、もし研究のスポットライトが正しいところに当たれば、新資料が発見されるかもしれません」