ここで、今一度、「本能寺の変」前後の情勢をひもといてみよう。足利義昭は、天正元(1573)年に、信長によって京都から追放されたあと、天正5年頃までは諸国の大名に自身の上洛について積極的に働きかけているが、そのあとは援護を毛利氏一本にしぼったこともあり、ほとんどそのような動きがなくなっている。本能寺の変が起こるまでの5年間で、将軍としての影響力は急速に低下していたとみられる。
くしくも「本能寺の変」のあった天正10年(1582)年6月2日、義昭を庇護していた毛利氏は備中(現在の岡山県)で、信長方の羽柴秀吉軍と交戦中だった。変を知った秀吉は、急いで毛利氏と講和を結んだが、すぐには立ち去らず2日ほどとどまった。本能寺の変を知った毛利氏が追撃してくるのを恐れたためだが、結局、毛利軍は攻撃してこず、陣を引き揚げたのは史実のとおりである。
明智氏によれば、
「毛利氏が仮に義昭と光秀と結んで、本能寺の変を知っていたのであれば、せっかくの上洛のチャンスを捨ててわざわざ引き揚げるはずはない」
実際、毛利軍の最高幹部である毛利輝元と小早川隆景が本能寺の変から4日後の6月6日付で国元(領地)に送った書状に、そのヒントがある。内容を要約すると、
〈信長が討たれた。討ったのは津田信澄・明智光秀・柴田勝家である〉
本能寺の変の全容を正確につかんでいなかったことが、書状からも明らかなのだ。
毛利氏に庇護されていた義昭が、その毛利氏を蚊帳の外に置いて、結託した光秀を動かしたとは考えにくい。藤田教授が唱える「義昭黒幕説」に対する疑問点の一つはここにあるのだ。
確かに、今回発表された書状の原本の宛て先にある土橋重治は、反信長の雑賀衆として奔走していた人物であり、義昭を庇護する毛利氏とも通じていたことから、注目されるのは無理もない。
実際、土橋氏は変の半年前に信長と対立し、近国や土佐の長宗我部氏のもとに落ちのびていた。
しかも毛利氏の縁戚である吉川氏の「吉川家文書」によると、本能寺の変を最初に知らせたのは「紀州雑賀」の者だったという。つまり、雑賀衆の中でも土橋氏は、信長に対抗している長宗我部氏、毛利氏に通じていたことは明白なのである。当然、土橋氏は毛利氏に身を寄せていた足利義昭とも連絡を取っていたとみられるだけに、土橋氏を通じて、光秀と義昭が通じていたことも考えられなくはない。
とはいえ、今までのところ、両者の関係を証明する新たな“証拠”は見つかっていない。
「多くの報道で省かれているが、この書状は土橋重治から光秀に対する手紙の返書。義昭と連絡を取っていた重治が、光秀に義昭の京都帰還を頼んだにすぎない。それに対して光秀が『承諾している』と返事をしているのがこの書状の内容です」(日本歴史学会関係者)