なぜ織田信長は家臣の明智光秀に下剋上されたのか──日本史最大の謎の一つにまたもや新しい仮説が登場した。いわく「足利義昭の室町幕府を再興するのが目的だった」というのだ。新たな史料の発見でにわかに騒然となる一方、光秀の子孫が大胆な仮説に対して持論を展開。はたして真相は──。
先頃、明智光秀の書状の原本の存在を発表したのは、三重大学の藤田達生教授(日本近世史)。岐阜県の美濃加茂市民ミュージアム所蔵の書状が、「本能寺の変」直後、紀州(現在の和歌山県)を拠点とする雑賀(さいか)衆(野侍集団)の土豪(リーダー)に送ったものである可能性が高いと公表したのである。書状に書かれた光秀の筆跡や花押(サイン)が確認できるほか、細かな折り目などの様式から光秀による密書の特徴が認められるばかりか、本能寺の変10日後の天正10(1582)年6月12日に送ったものとみられることから注目に値するというのだ。しかもその内容から、この書状が、天下統一目前の織田信長を殺害した明智光秀が室町幕府の再興を図っていたと指摘している。
新史料発見の一報は、NHKが全国ニュースで流し、他の主要メディアも追随。「歴史の教科書を書き換えるかもしれない新たなストーリーが見えてきた」という論調の報道も少なくなかった。
「書状には、信長によって追放された室町幕府最後の将軍である足利義昭の入京を光秀自身が承知したとする内容が記されている。文中に義昭の名前こそ具体的には記載されていないが、『上意』『御入洛(じゅらく)』という貴人にしか使わない言葉が出てくることから、藤田教授は『信長亡きあと、こうした表現がなされる対象は義昭のほかに考えられない』と推測しています。藤田教授はかねてから、『本能寺の変』の目的を室町幕府再興とする説を唱えてきました。そのよりどころが東大の史料編纂所に収められていた(今回発見された書状の)写しでした。藤田教授の立場からすれば、今回の発見は自説を裏付ける有力な証拠となる可能性が高いのでしょう」(日本歴史学会関係者)
だが、本当に光秀は「室町幕府再興」のために、主君である信長を討ったのだろうか。専門家からは、今回の史料だけでそこまで言い切ることに疑問の声も上がっている。
明智光秀の子、於寉丸(おづるまる)の子孫で「本能寺の変431年目の真実」(文芸社)などの著書がある明智憲三郎氏も今回の“新発見”については否定的意見だ。
「そもそも今回の件は、原本が発見されたというだけの話で、目新しい発見という類いのものではありません。研究者の大半からも冷ややかに見られていると思います」
明智氏といえば、大手電機メーカーのエンジニア時代から、本能寺の変に関する研究に携わり、その成果を著書や講演活動を通じて発表。「光秀が徳川家康との談合のあげく、やむにやまれず信長討ちを果たした」とする説を打ち出し、前出の「本能寺の変431年目の真実」が発売から半年余りで26万部という異例のベストセラーとなったのも記憶に新しい。それだけに室町幕府再興説に対しては、以前から懐疑的なスタンスをとってきた。
その明智氏が続ける。
「義昭を庇護していた毛利氏が、本能寺の変後、光秀に加担しようとした形跡は一切ありません。それどころか、変の正確な情報すらつかめていませんでした。義昭が光秀に信長討ちを指示していたならば、毛利氏が把握できていないはずがありません」
毛利という最大のパトロンが知らないところで、光秀と義昭が結託していたというシナリオには、無理があると言うのである。