1978年12月28日、田宮二郎は自身の心臓を、愛用の散弾銃で撃ち抜いた。師走の街を襲った訃報は没後40年を経た今も、芸能史に残る衝撃として記憶される。家庭も仕事も順調だったスター俳優を死に追いやったものとは何か──。10年に及ぶ調査・取材の総決算を、ここにレポートする。
テレビ朝日は来年、開局60周年記念番組として「白い巨塔」(山崎豊子原作)を5夜連続でドラマ化することを発表。主演の外科医・財前五郎には岡田准一が扮することも、併せて明らかになった。
このニュースに、ネット上では多くの意見が飛び交った。それを代表するのが「財前五郎は田宮二郎以外にありえない」というものだ。原作そのままに大柄な体、野心的な言動、何よりもドラマの最終回と同じく死を迎えたことが「財前イコール田宮」という印象を強烈にしている──。
筆者は没後30年にあたる08年から、断続的に「田宮二郎の死の真相」について取材を重ねた。長男・柴田光太郎、未亡人で元女優の藤由紀子こと柴田幸子の2人からは、家族しか知りえない貴重な証言をいくつも聞かせてもらった。
さらにこの8月、幸子夫人は新たに記憶をたぐり寄せた。40年前の12月28日、遺体に向き合った生々しい瞬間を、である。
「その日の私は年末の支払いもあって、朝10時に銀座で人と待ち合わせました。その後、私が代表を務める『田宮企画』の仕事納めということもあり、事務所に寄ったんです。そこで聞かされたのは、さっきまで田宮から3分おき、1分おきと短い間隔で私を呼ぶ電話があったと‥‥」
胸騒ぎを覚えた夫人はマネージャーとともに、タクシーで自宅へ急行する。当時、田宮は幸子夫人の母と同居していたが、この日、持病の腸捻転が悪化して緊急入院。田宮はそのことを自分のせいだと思い、ひどく動揺していたという。田宮は私に、どう判断してほしいかを聞きたかったのではないか──。そう思ってドアを開けた夫人は、ただならぬ気配に包まれる。
寝室の扉を開けると、田宮が横たわっていた。体は熱く、布団の中も熱い。顔は微笑んでいて、いつもの田宮のいい香りがした。
「呼べばすぐに起きてくるとしか思えない。慌てて救急車を呼ぶと、5分で駆けつけるということでしたが、その5分は、30分にも1時間にも感じられました」
救急隊員がやって来たが、夫人の目には、ひどく鈍い動きに映った。いや、田宮を運ぶことなく引き揚げるような素振りにすら見えた。
夫人は怒鳴った。
「なぜ早く運ばないの! 早くして! あなたたちに何がわかるの! 急いで病院に運んで!」
賢夫人と呼ばれた人物と思えないほど苛立っていた。やがて付き人の連絡を受けた刑事もやって来て、すぐに首を横に振る。「即死」であるとの意思表示だった。
夫人はようやく田宮の死を受け入れる。それならば、一刻も早く田宮のそばに寄り添いたかった。
「なんで待っててくれなかったの! 生きると決めたんじゃなかったの!」
起きるはずのない田宮の体を揺すり、そう叫んだ。