2年連続でレコード大賞に輝くなど、中森明菜(53)は昭和の時代に輝いていた。そして平成元年、衝撃の事件は起こった。芸能ジャーナリストの二田一比古氏が、20年に及ぶ取材メモを公開する。
「すでにバイクで明菜の家に駆けつける近藤真彦の姿が『フォーカス』で報じられるなど、2人の仲は隠しようがないことだった。それなのになぜ、明菜はマッチのマンションで自ら命を絶とうとしたのかが謎でした」(二田氏)
89年7月11日、六本木のマッチのマンションで、血まみれで浴槽に横たわる明菜が発見された。傷は左肘内側に深さ2センチ、長さ8センチという重傷。手術は6時間に及び、一命を取り留めている。
「マッチが第一発見者ということになっているが、実はその日、大阪にいたという情報があります。明菜から連絡をもらったマッチが、事務所の人間に駆けつけてもらったそうです」(二田氏)
代償は大きかった。明菜は1年間の活動休止、所属する「研音」からの独立、そして暗礁に乗り上げたマッチとの結婚である。
ただ、この自殺未遂の段階では破局に至っていない。明菜は何に悲観し、突発的な行動に出たのだろうか──。
「一つは金の問題です。明菜はマッチと新居を構えるため、数千万円単位の金額をマッチに預けていた。ところが、マッチは夢中になっていたレース資金のために、その金をつぎ込んだとみられています」(二田氏)
さらに、明菜の直情型の性格も悲劇に輪をかける。機嫌のいい時には草花にも話しかけるほど穏やかな面を持つが、ひとたびスイッチが入ると手がつけられない。二田氏は、明菜を担当したことのあるマネージャーからこんな話を聞いた。
「ホテルの調度品やテレビを突然、叩き壊すんです。そのため、都内には出入り禁止になったホテルが何軒もありますよ」
明菜の母親もたびたび報道陣に消火器をぶちまけるような激情タイプだったが、その性格は母親譲りということになろうか。そして同年12月31日、明菜は沈黙を破り、マッチとともに会見を開いた。
「紅白をやっている裏の時間帯で、しかも会場には金屏風が配してあった。てっきり婚約会見かと思ったら、ひたすら明菜がマッチに謝罪するための会見。明菜の結婚願望は、完全にハシゴを外された形です」(二田氏)
当時の研音の社長だった花見赫氏に、騒動から23年たって聞いたことがある。この会見に明菜サイドは一切タッチさせてもらえず、完全に「ジャニーズ」の仕切りであったという。実際、会見でリポーターから「結婚は?」と問われたマッチは、顔色一つ変えずに答えた。
「そういうことはまったくありません」
明菜はその後も、所属事務所やレコード会社、ドラマの撮影スタッフと衝突を繰り返した。21世紀に入ると体調も悪化して、長らくの休業を強いられた。そしてマッチもまた、事件以前の輝きは取り戻せていない。
二田氏はこう結んだ。
「ある意味、マッチも犠牲者だったかもしれないが、ただ5000万円とも6000万円とも言われた金の行方は今も気になります」