89年7月、中森明菜は恋人だった近藤真彦の自宅マンション浴室で左ひじに深い傷を負い、血まみれで発見された。幸い命に別状はなかったが、同年大みそかに双方そろって、なぜか金屏風をバックに謝罪会見を開いたのである。
当時を知る、芸能プロのマネージャーが語る。
「会見はマッチのイメージ回復を図りたいジャニーズ事務所の主導で行われ、独立したばかりの明菜は“主役”ながらも当日までほとんど蚊帳の外だったようです。会見場に金屏風が置かれていたことから、明菜が婚約会見とダマされて出席したという噂もありました」
会見の最後、近藤が明菜を促す形で「友人」として握手を交わしたが、何とも後味の悪いものだった。
芸能レポーターの石川敏男氏は、「聖子と近藤のニューヨーク密会がなければ」明菜の自死未遂もなかったのではないか思うと振り返っている。
確かに、近藤と松田聖子の密会が発覚したのは自死未遂の直前だった。聖子は当時すでに恋多き魔性の女として君臨していた。
81年に交際が発覚した郷ひろみとの破局からわずか2カ月後の85年に神田正輝と婚約。97年に神田と離婚した後も“ビビビ婚”を含め2度再婚している。
結婚している間も、原田真二や米国人無名俳優のジェフ・ニコルス、バックダンサーのアラン・リードなどとの不貞疑惑が次々と取り沙汰されたものだ。
ジェフとの不貞騒動について、芸能レポーターの城下尊之氏が回顧するには、不貞関係が明らかになった際、「ニューヨークで神田さんと聖子さんが落ち合って日本に帰国したことがありました」とのことだが、動く歩道での取材では、誰も暴露本の件を聞かない。そこで城下氏が「松田さん」、と呼びかけ、不貞について書かれていることについて、「どうなんですか?」と問い掛けたという。
「すると神田さんが『よく知っているのに、そんな質問することないじゃないか!』と怒って柵を飛び越えてこっちに来ようとしたんです。その時、聖子さんはニコニコ笑っていたんですが、のちに神田さんいわく『俺の手を押さえつけていたんだよ。凄いよね』って」(城下氏)
3月15日発売の「週刊アサヒ芸能」3月24日号では、そんな芸能史に残る「愛と憎しみの修羅場」を7ページにわたって大特集している。