日本最古の和歌集「万葉集」を出典とする「令和」は「大化」以来、実に248回目の元号だ。元号は古代中国で皇帝支配の象徴として用いられ、日本では明治になり「一世一元」になったが、かつては目まぐるしく変わる時代もあった。そこで、元号とともに歩んだ125代歴代天皇の歴史を検証してみると──。
言うまでもないが、日本の歴史において、天皇の存在は大きな意味を持っている。そんな天皇の歴史が始まったのは2600年(諸説あり)ほど前の神武(じんむ)天皇の時代だ。神武天皇は九州の日向に生まれ、15歳で皇太子となったのち、45歳の時に東方の「美き国」である大和に都を構えるため、大軍を率いて日向を発った。これが、大和を征服して即位までを記した説話、神武東征である。
だが、天皇や皇室に関する著書を多く持つ神道学者の高森明勅氏はこう語る。
「実は、神武天皇から第九代の開化(かいか)天皇までは、伝承上の天皇と言われています。一方、考古学的に見ると、この時代に政治的中心が九州地方から大和方面に移動し、大和朝廷がスタートしたのが奈良県だったというアウトラインは神武天皇の伝承と被っています。ただ、『古事記』によると、神武天皇は137歳で崩御したとあり、メチャクチャ長寿(笑)。しかも神武天皇は当初は大和入りを果たすことができず、和歌山のほうに逃げた後、熊野へ上陸。しかし、土地の神の毒気にあたり全軍が倒れてしまい、結局、神様に助けてもらって蘇るとされている。つまり、神武天皇は100戦不敗みたいな軍事的に卓越した有能なリーダーではなかった。そう考えると、古代の日本人は天皇に対し軍事的、政治的有能さを求めていたのではなく、神に祝福を受ける存在であるかどうかを重要視した。それが大和朝廷初代のリーダーに対する古代日本人の理想であり、神武天皇に投影された彼らの思いだったのかもしれません」
大和朝廷の初期には日本武尊(やまとたけるのみこと)の父とされる景行(けいこう)天皇や王統の断絶を救った継体(けいたい)天皇などが登場。飛鳥時代から奈良時代にかけては、推古(すいこ)天皇をはじめ、持統(じとう)天皇、元明(げんめい)天皇、聖武(しょうむ)天皇など、数々の有名な天皇が歴史の表舞台で活躍し、平安時代中期には摂関政治の時代となり、院政期には退位した天皇である上皇(じょうこう)が政治の主体となる。ところが、鎌倉幕府が開かれ武家政権の時代になると、朝廷と武家との間で争いが頻発。さらに戦国時代には朝廷は衰微。徳川家康の頃には「禁中並公家諸法度」が制定され、天皇は京都御所に閉じ込められた存在となってしまうのである。
そんな状況が一変するのが幕末だった。1846年(弘化(こうか)3)に即位した第121代・孝明(こうめい)天皇は朝廷が発言力を増す中、歴史の表舞台に引っ張り出され、崩御したのち、1867年(慶応3)に第122代として明治天皇が16歳で即位。と同時に、江戸時代からの大政奉還が上奏され、明治天皇はこれを勅許。王政復古の大号令が発せられたことで、264年続いた江戸幕府の歴史は幕を閉じることになった。
「そして、版籍奉還、廃藩置県、天皇親政により中央集権国家が樹立されることになり、明治天皇は名実ともに国家元首となるわけですが、実は歴代天皇は形式的、主観的にも君主の地位にあった。それは現代も同じで、天皇は国際法上、日本を対外的に代表する元首であることは客観的事実。つまり『象徴か、元首か』ではなく、元首だから象徴たりうるものだ、ということ。古来から天皇が連綿と存在してきたことによって、日本の社会は安定した秩序を保つことができた。秩序が安定してこそ、平和が保たれ、社会は発展していきます。そう考えると天皇の存在は、日本の存続と発展のため大きな役割を担ってきたということです」
高森明勅(たかもりあきのり)氏プロフィール:昭和32年、岡山県生まれ。國學院大學文学部卒。神道学・日本古代史専攻。日本文化総合研究所代表。著書に『この国の生い立ち』(PHP研究所)、『天皇から読みとく日本』(扶桑社)、『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)、『私たちが知らなかった天皇と皇室』(SBビジュアル新書)ほか多数。