さて、歴代天皇の中には、暗殺された天皇がふたりいるとされる。その一人が、5世紀後半に活躍した第20代の安康(あんこう)天皇だ。
「安康天皇は宋に使者を派遣し『倭国王興』の称号を受けた天皇でしたが、臣下に騙され、仁徳(にんとく)天皇の皇子である大草香皇子(おおくさかのみこ)を罪なく攻め殺してしまった。そして、その妻を自分の妻として皇后に据えたのですが、連れ子である眉和王(まよわのおおきみ)に父親を殺したことを気付かれてしまった。で、山の宮で宴を開いたのち昼寝をしている最中、皇族に刺殺されてしまったのです」
そしてもう一人、暗殺という形で命を落としたのが、第32代の崇峻(すしゅん)天皇だった。
崇峻天皇は第29代・欽明(きんめい)天皇の皇子で敏達(びだつ)天皇(第30代)や用明(ようめい)天皇(第31代)、推古天皇(第33代)の異母弟にあたるが、
「崇峻天皇が即位した後も結局、政治の実権は蘇我馬子(そがのうまこ)に握られ、崇峻天皇は不満を募らせていくんですね。加えて懸命に取り組んでいた任那(みまな)(朝鮮半島南部の地域)の再建もほとんど進展がなく、何かあれば『馬子を殺してやる!』と発言しては宮中にどんどん武器を集めていった。そのため、結局は奥さんに密告され、馬子の腹心に殺害されることになります」
ところが、時の天皇である崇峻天皇の暗殺後、不思議と動乱は起こらなかった。
「背景には推古天皇の同意があったからだと考えられます。その証拠に安康天皇が暗殺された際には暗殺に関与したとされる皇族が殺されますが、崇峻天皇暗殺の際には波風ひとつたっていない。それどころか、殺された後すぐスムーズに推古天皇が即位していることを考えると、この暗殺事件は推古天皇の同意なくしては成り立たなかったはずなんです」
ご存知の通り、推古天皇は日本で最初の女性天皇。592年に飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)で即位したが、歴史教科書の多くが「男性天皇即位までの中継ぎ」と記述している。
「でも、推古天皇が登場してくるのは、前天皇が暗殺され、しかも『隋』という国が政治的軍事的に圧力を強めていた、まさに内憂外患の時代。常識的に考えて、そんな非常時にワンポイントリリーフの中継ぎリーダーに国を任せるはずがない。そう考えると、推古天皇という女性は優れた能力を持ったカリスマ的なリーダーだったと思われます」
推古天皇は即位後、用明天皇の子である厩戸(うまやと)皇子(のちの聖徳太子)を皇太子に立て、摂政に起用した。
「権力バランスを保つため崇峻天皇暗殺を指示した蘇我馬子を共に政治にあたらせているんです。配下に皇族を代表する聖徳太子と豪族を代表する蘇我馬子という強力な布陣を敷くことで、冠位十二階を定め憲法十七条を制定。さらに遣隋使を派遣するなど外交にも力を入れつつ、国内を安定させていったのです」
高森明勅(たかもりあきのり)氏プロフィール:昭和32年、岡山県生まれ。國學院大學文学部卒。神道学・日本古代史専攻。日本文化総合研究所代表。著書に『この国の生い立ち』(PHP研究所)、『天皇から読みとく日本』(扶桑社)、『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)、『私たちが知らなかった天皇と皇室』(SBビジュアル新書)ほか多数。