また、原もその田中も人心収攬術にたけていたが、共通したのは“使える”と思った人物に対しては、フルネームで名前とその経歴を頭に叩き込んでいたことだった。田中が官僚に対してそれを駆使し、縦横に大蔵省などの役所を動かしたように、原も自分を衆院選で支援してくれる出身地・岩手県内の県市町村議会の議員のフルネームをすべて暗記、選挙の手足にもなってくれる彼らを、ことのほか大事にしたものだった。しかし、どんな明敏な人間にも、物忘れはある。会った際にままフルネームが出て来なかったとき、原は頭のいいテクニックを使ったのだった。例えば、こうである。
「やあ、しばらくだな。元気か。アンタの名前が出て来ない‥‥」
「山田ですよ」
「そんなことは分かっている。山田の下の名前だ」
「三郎です」
「そうだ。思い出した。山田三郎クンだった」
この手法、なんということはなく、原はフルネームをすべて忘れてしまっていたのだが、下の名前だけ忘れたフリをして、フルネームをすべて引き出し、親近感をかもしてしまうという“スゴ腕”ぶりを発揮したということだった。
これをマネたのが田中角栄で、新潟の選挙区で支持者のジイサン、バアサンと歓談するときに、よくこの手を使って親近感を深めた。
「アノ田中先生が、あたしの名前を覚えていてくれた」
感激したジイサンもバアサンも、選挙の際はわが身を忘れ、田中のために駆け回るということだった。田中が圧倒的に選挙に強かった底流には、原譲りのこうしたテクニックがあったということである。原の頭脳は、歴代総理の中でも後年とんでもない頭脳の持ち主と言われた田中と、“双璧”だったと言ってよかったのである。
一方、「平民宰相」で知られた原ではあったが、実は平民の生まれどころか、西園寺公望(さいおんじきんもち)などの公家出身者を除けば、武家の中でもトップクラスの家柄の出であった。祖父は盛岡藩(旧南部藩)の家老職、父親も御用人といった具合だった。
平民となったのは、本家を兄が継いだことにより、分家することになったのがキッカケだった。折から、戊辰戦争(ぼしんせんそう)で盛岡藩は新政府軍に敗れ、賊軍として没落した。ために、東北の諸藩出身者は、薩長の出身者からは、
「白河以北 一山(ひとやま)百文」などと言われたのだった。要するに、福島県の白河より北の東北の藩などは、百文も出せば、買える山程度のものと侮蔑されたのだった。ここに、原の持ち前の反骨精神が燃え上がった。あえて平民の身となり、増長する薩長出身者に伍し、彼らと対等な地位までのぼってやろうとのそれであった。
向学心の強かった原は、上京後、盛岡藩が藩出身の青年のためにと設立した「共慣義塾(きょうかんぎじゅく)」に入学したが、学費を払えなくなったことで退学した。その後、学費の要らないカソリック神学校で学び、「ダビデ」名の洗礼を受けた。ここでフランス語を修得、これが将来の進路に役立つことになる。分家、独立して平民となったのはその2年後である。
平民となったあとは、苦学しながら外務省交際官養成所、海軍兵学校とを受験するも失敗、しかし2番の成績で司法省法学校に合格、ここに入学した。だが、気骨では人後に落ちない原はここで寄宿舎の食事改善要求運動でひと暴れ、退学処分となったのだった。退学後、中江兆民(なかえちょうみん)が主宰の「仏学塾(ふつがくじゅく)」で学んだ後、薩摩出身者だが藩閥臭がなく、また「型破り」「奇人」とも言われたが人の好い中井弘という人物の口利きで、「郵便報知新聞」に入社、新聞記者として本格的な社会人への第一歩を踏み出すことになるのである。
このあたりでは、貧しいながらもなんとか這い上がってやろうとの気骨と、人一倍の努力家の原の姿が浮かび上がる。総理大臣のイスに座るまで、曲折はまだまだ続くことになる。
■原敬の略歴
安政3(1856)年2月9日、陸中国(岩手県)盛岡城下の生まれ。生家は旧南部藩家老職。分家独立して、平民に。第四次伊藤内閣逓信相を経て、衆議院議員当選。総理就任時、62歳。大正10(1921)年11月4日、東京駅にて暗殺される。享年65。
総理大臣歴:第19代1918年9月29日~1921年11月4日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。