昭和47(1972)年7月誕生した田中角栄内閣は支持率62%、不支持率10%(朝日新聞)という当時としては驚異的な数字を得ての登場だった。
時に、田中は54歳と戦後総理として最年少であり、加えてそれまでの総理が官僚出身のエリートだったのに対し、学歴は尋常高等小学校卒、社会の泥水をすすりながらのいわゆる「叩き上げ」の人生の中で掴んだポストだった。これを、国民は「庶民宰相」「今太閤」として、歓呼の声で迎えたということだった。
もっと言えば、掲げた政策も「日本列島改造計画」であり、新幹線を中心とする鉄道、あるいは高速道を日本全国に張り巡らせ、人口の過疎・過密を解消することを目指した。太平洋と日本海側の経済を中心とするあらゆる格差を是正しようとの雄大、斬新な“切り口”に、大なる期待が込められたものであった。また、前任の佐藤栄作総理が実に7年8カ月の長期に及んでいたため、「官僚政治」ともども、このあまりにもの長期が飽きられていたということが、国民が大歓迎した理由でもあった。
その田中の政治家像としての特徴は、「日本列島改造計画」を掲げたように、政治家として極めて構想力、発想力、また即断、即決の「決断と実行」ぶりが際立っていた。「コンピューター付きブルドーザー」の異名もあったのである。
また、「叩き上げ」の中で培った、この人物はいま何を求めているかを嗅ぎ分ける能力、人間洞察力は天才的で、人心収攬術の巧みさも群を抜いていた。これをもって政界、官界、経済界の人脈を日本全国に作りあげ、結果、天下を手にしたと言ってよかったのだった。
一方で、毀誉褒貶の激しい人物でもあったが、メディアが報じる「国民が興味を持つ歴史上の人物」アンケートでも徳川家康、豊臣秀吉に伍して常にトップ10に入るなど、まさに“歴史上の人物”でもあった。
さて、その田中は、ライバル福田赳夫(のちに総理)という壁を打ち破って政権の座に就いた。世に言う、「角福総裁選」での勝利である。この総裁選は、「金力(カネの力)の差」との声もあったが、結局は次のような田中の「政治観」と「知力」の勝利とも言えたのだった。
その頃、田中は佐藤栄作総理率いる自民党佐藤派の“台所(派閥資金)”を、一手に面倒を見るなど、佐藤派の実力者であった。ところが、一方に「ポスト佐藤」を窺う福田がいた。福田は佐藤の実兄・岸信介(元総理)の流れを汲んでおり、一方で運輸官僚出身の佐藤は、大蔵官僚出身の福田に親近感も持っていた。「佐藤は結局、福田を後継に推すのではないかと」との声も出ていたのである。すでに「ポスト佐藤」に照準のあった田中としては、気が気ではない。田中の打った手、胸の内は、次のようなものであった。
このまま手をこまねいていれば、総理の座は福田に回ってしまう可能性が高い。それなら佐藤にもう1期やらせ、その間に多数派工作に拍車をかけるほうが得策ではないかと。
結局、田中は自民党内に根回しして佐藤「4選」へのレールを敷き、この間に佐藤派の3分の2を握り、実質的な田中派を作り上げてしまったのだった。佐藤が「沖縄返還」を引き替えに退陣、後継を巡る「角福総裁選」となったわけだが、結果的に佐藤の意向に頼っていた福田は多数派工作で後れを取り、田中陣営の勢いに抗することはできず敗北したということだった。総裁選直前、田中はすでにこう豪語していた。
「オレが負ける戦なんかやるもんか」
■田中角栄の略歴
大正7(1918)年5月4日、新潟県生まれ。二田(ふただ)尋常高等小学校卒業後、16歳で上京。復員後、田中土建工業設立。昭和47(1972)年7月内閣組織。総理就任時54歳。日中国交正常化を実現。「ロッキード事件」で逮捕。最高裁上告中の平成5(1993)年12月16日、死去。享年75。
総理大臣歴:第64~65代 1972年7月7日~1974年12月9日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。