その原は、最期はわが国現役総理大臣初の暗殺事件の中で命を落とした。この事件は、折から原はやがて天皇となる皇太子(のちの昭和天皇)には国際的見聞も必要と外遊案を打ち出したが、これに皇后が反対、さらに右翼陣営も反発という論争の中で起こった。大正10(1921)年11月4日、原は東京駅改札口前で、テロの凶弾に倒れる。まさに波乱の生涯だったと言えよう。
原と反発し合った山県有朋の言葉。
「原は偉い奴だった。あんな男を殺されたら、国家はたまったものではない」
この言葉は、国家本位を考えた大政治家を称え、惜しんだ一方で、山県自身も民主主義の発展を否定するものではなかったことを表している。
また、かつて原が在籍した「大阪毎日新聞」は、その年11月8日付で、原暗殺の海外の論調を次のように紹介してその死を惜しんだ。
〈原氏が常に努力してきた日本国民の民主主義が、未解決のまま残ったことになる〉(米「ニューヨーク・トリビューン」紙)
生前の原は、私生活でこんなエピソードを残している。
女性関係は記者時代から芸妓など華やかだったが、初婚については20年間続いた末にピリオドを打った。妻・貞子は13歳年下で奔放な性格、ついにガマンができずの離婚だった。再婚した相手は浅子だったが、こちらは「賢夫人」だった。原は朝鮮公使時代にタバコを吸い過ぎて卒倒したほどの愛煙家だったが、さすがに禁煙を余儀なくされた。しかし、隠れての一服もあり、浅子はそれを見つけると黙ってそのタバコを取ってしまうのが常だった。そんな時、原は苦笑しつつ浅子に従った。「波乱の女性関係」ではあったが、原は円満な夫婦として、浅子との17年間の結婚生活をまっとうしたのだった。
また、晩年はリューマチで苦しんだが、政治家の病気は針小棒大に喧伝されるのが常とあって、原はどんなに痛みが走っても、「ナニを言われるか分からん。時局に影響する」と人前で正座を崩すことがなかった。ただし、人のいないところでは、泣きそうな顔つきで足を投げ出していたとの証言もある。藩閥という抵抗勢力に強気の一方で、懐柔策で臨んだ「政党内閣」を率いた原のガマン強さの一端がのぞけるエピソードではある。
原の死は前述の通り海外からも惜しまれたが、原自身はいささか未消化だった政権を降りる際、「あと10年早く総理大臣になっておればもっとやれた。10年遅かった」と、大いに悔しがったものだった。
■原敬の略歴
安政3(1856)年2月9日、陸中国(岩手県)盛岡城下の生まれ。生家は旧南部藩家老職。分家独立して、平民に。第四次伊藤内閣逓信相を経て、衆議院議員当選。総理就任時、62歳。大正10(1921)年11月4日、東京駅にて暗殺される。享年65。
総理大臣歴:第19代1918年9月29日~1921年11月4日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。