生まれて数日後に里子に出され、少年期に語学と文明を知るために米国に渡ったものの「奴隷」として売り飛ばされる寸前で難を逃れた。帰国後は、東京・日本橋の芸者の「箱屋」として、遊蕩生活、さらに生来のヤマッ気からペルーで銀山経営に乗り出したが詐欺に引っかかって大損、奈落の底に突き落とされるなど、「波乱万丈」という言葉は、高橋是清のためにある感があった。転職は教師など、実に20回に及んだものである。
しかし、その間、経済・財政を、猛勉強、その能力を買われて官界入り、日本銀行総裁としてわが金融界の重鎮となったあと、ついには内閣総理大臣となったのだった。こうした高橋の出世街道での特色は、「オレが」の姿勢は一切見えずの無欲恬淡(てんたん)、人から引き上げられ、推されるというのがパターンであった。時代は変わっても「オレがオレが」の人物より、一歩引いた重心の低い者が出世街道を歩むケースが多いのは変わらないようである。
さて、総理としての実績はと言うと、内閣改造が行き詰まり、あっさり投げ出してのわずか212日と短かったことも手伝い、残念ながら極めて乏しかった。
内政的には、前任の原敬内閣で膨らんだ財政の抑制に取り組み、かろうじて地方会計予算や新規計画施策の見直しなどで、1億円の歳出削減には成功した。当時の1億円は遊郭の“ショート・タイム”が1円強だったことからすると、現在なら1兆円ほどの規模になり、なるほど「財政家の高橋」の面目躍如のところではあった。
一方、対外的には日英同盟を破棄した代わりに、英米仏との4カ国条約を結び、太平洋地域の状況を安定させた。また、英米との協調体制をとることで海軍の建艦競争に歯止めをかけ、ここでも財政圧迫緩和へエネルギーを注いだといったところにとどまった。施政への視野は、総理として広いとは言えなかったということである。
しかし、自らの内閣をはさんでの前後7度という異例の大蔵大臣ポストでは水を得たように、存分に「金融の重鎮」ぶりを発揮し続けた。まさに、後世の大方の評価、「蔵相としての手腕はAクラス、総理としてはゼロに近い」ということだった。
蔵相としての役回りは、総理経験後の田中義一、犬養毅、斎藤実、岡田啓介内閣で連続してと、異例中の異例であった。
昭和2(1927)年の田中(義一)内閣の「昭和金融恐慌」では、全国金融機関への支払い猶予令(モラトリアム)を出し、表は印刷されているが裏は白紙の200円紙幣を刷り、これを金融機関に積み上げさせて預金者を安心させ、取り付け騒ぎを回避させてみせるという奇策で臨んだ。“ニセ札”で預金者心理の不安を取り除くとは、なんともいい度胸と言えたのだった。
また、昭和7(1932)年には前年の満州事変勃発もあり、それまでの財政政策を転換、「金輸出再禁止」による金本位制の停止、低金利、歳出拡大の積極策を進めた。特に、金融を大幅に緩和する日銀引き受けによる赤字国債の発行に踏み切り、歳入の不足分をこれでカバーする手を打った。以後の今日まで続くわが国の赤字公債発行は、このときの高橋蔵相をもって嚆矢とするのである。
しかし、岡田内閣の蔵相では一転、悪性インフレへの懸念から赤字公債の発行にブレーキをかけ、軍事費の膨張に歯止めをかけるという柔軟な財政政策で臨んだ。これが、結局は高橋の命を縮める要因となるのだった。
公債発行の減額は軍の予算増額要求を蹴るものであり、ここにおいて陸軍皇道派青年将校による「昭和維新」クーデターのターゲットとされた。昭和11(1936)年2月26日、いわゆる「二・二六事件」での高橋蔵相暗殺である。
東京・赤坂の高橋邸に近衛歩兵第三連隊第七中隊が乱入、就寝中の高橋は「何をするかッ」の一言を残したまま、4発の銃弾を受けほぼ即死状態だった。享年82。万事に楽観主義、決して無理をせずの言うなら“来るをとらえる人生”と言えたのだった。
■高橋是清の略歴
安政元(1854)年7月27日、江戸(東京)芝の幕府御用絵師の家に生まれる。アメリカ留学。日本橋の芸妓・桝吉(ますきち)と遊蕩三昧生活。総理就任時、67歳。蔵相ポスト都合7度。昭和11(1936)年、「2・26事件」で青年将校の凶弾に倒れる。享年82。
総理大臣歴:第20代1921年11月13日~1922年6月12日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。