失敗なんとも多きの波乱万丈の前半生を送り、請われて総理大臣のイスに押し上げられ、その前後、都合7回も大蔵大臣に就任し、「わが資本主義史上の最高の財政家」と謳われた高橋是清は、まさに七転び八起き、その丸々とした恰幅のよさと陽気で大らかな性格と併せて「ダルマ宰相」と呼ばれていた。「自分は無用の波乱を重ねてきたが、誇り得るものがあるとすればいかなる場合でも絶対に自己本位には行動しなかったことである」との言葉(『随想録』千倉書房)は、その高橋が公的立場に立って以降、一切、自己本位の行動は取らず、私的利益に目を奪われることなく、公的利益優先を行動原理としていたとの自負が表れている。
「下3日で上を知る」との言葉があるように、部下というものは、上司の本質をたちどころに見抜いてしまう達人である。高橋の言葉は、上司が公的利益を最優先に考えながら行動していることは部下の信頼と敬意を集め、組織のトップとしてこれ以上ない求心力を集めるのだということを示しているということである。高橋の「胆力」、リーダーシップの手法には、自らを利するという考え方、作為的なものはほとんど見られなかったという点で特筆に値するということでもある。
さて、高橋くらい楽天主義に生き、失敗に失敗を重ねての転々人生を送って総理大臣になった人物は、もとより今日まで皆無である。
前半生を振り返れば、幼くして里子に出され、向学心が強く英語と西洋文明を知るために渡った米国では、間一髪、奴隷として売られそうになった。ほうほうの体で帰国した後、教師の職を得たが、東京・日本橋の芸者・桝吉(ますきち)に惚れて、いとも簡単にその職を捨て、桝吉の三味線運び兼用心棒としての「箱屋」になってしまう奔放さであった。その一方で、姐さんに隠れては、「吉原通い」にもうつつを抜かすといった放蕩ぶり。酒は連日3升、しかもケロリといったとてつもないタフな男でもあった。
やがて、その桝吉と別れたあと、教師の口などを見つけてはクビを繰り返し、その後は米市場、銀市場の相場師に転身する。しかし、ここでは大損。さらに、南米ペルーの銀山開発に手を出すもサギ師にダマされ、ついには丸裸にされたのだった。
ここで大事なのは、一方で高橋は極めて勉強家であったということである。決して、ナマケ者ではないのである。例えば、大酒を飲んでも、眠気がさしてくると手の甲にところかまわず灸をすえ、毎晩3時間の読書を欠かすことがなかった。佐賀・唐津藩の英語学校での教師の頃は、生徒があまりの灸の多さにビックリ、「先生、どぎゃんこつされた?」と詰問されたこともあった。こうした中で、頼山陽の『日本外史』全22巻をわずか3カ月足らずで読了してしまったこともあったのだった。また、英語が得意だったことから、海外の経済・財政に関する原書も片っ端から読みこなし、その知識は誰もが一目置く存在だったのである。
一方、どこか稚気に溢れ、物事に無欲恬淡の楽天主義が人に愛され、相場師になる頃にはその博識ぶりは官界にも知れ渡り、わが国初代文部大臣の森有礼の手が差しのべられて文部省入りを果たすことにつながった。その後、高橋は農商務省に移り、官僚トップである次官にのぼりつめ、これが政界入りのキッカケにもなっている。ちなみに、特許庁の初代局長となり、わが国の特許制度を整えたのも高橋だった。
ついには、総理経験者にして元老の松方正義からの引きがあり、紹介先は日本銀行であった。農商務省の次官までやった男である。日銀はしかるべきポストを用意したが、高橋いわく「ペルーの銀山で失敗した人間です。うぬぼれを捨てたところから出発したいと思っています。丁稚小僧からやれる仕事を探して頂きたい」とし、あえて日銀の建築所主任なる「軽量ポスト」にすわったのだった。
■高橋是清の略歴
安政元(1854)年7月27日、江戸(東京)芝の幕府御用絵師の家に生まれる。アメリカ留学。日本橋の芸妓・桝吉(ますきち)と遊蕩三昧生活。総理就任時、67歳。蔵相ポスト都合7度。昭和11(1936)年、「2・26事件」で青年将校の凶弾に倒れる。享年82。
総理大臣歴:第20代1921年11月13日~1922年6月12日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。