テリー もったいない話だな、人気ドラマの主役なのに。でも、もともとモデル出身だから、山下さんは昔からモテていたんでしょう。
山下 ああ、その頃は確かに(笑)。「メンズクラブ」なんかのファッション誌では、女性モデルと一緒の仕事もあってね。撮影が終わったら、外国人やハーフの娘から「夜遊びに行くから案内してほしい」って、よく言われたんですよ。
テリー 逆ナンですか、夢のようですね。
山下 しかも僕、当時は生意気にもコルベット・スティングレイをオープンカーにして乗っていたんです。
テリー ええっ、当時あんなクルマ、日本でなかなか見かけなかったですよ!
山下 まだ当時20代前半ですし、金髪の女の子を乗っけて青山通りをビャーッと走るのがカッコいいと思っていたんです。もっとも、コルベットは中古のボロでリッター3キロぐらいしか走らないから、飯を抜いてガソリン代にしていたんですけれどね(苦笑)。
テリー 当時の夜遊びってどこに行ってたんですか。
山下 赤坂の「ビブロス」みたいなディスコですね。ナンパ目的で、ほとんど毎日のように通ってました。
テリー その頃のディスコって、若者にとって特別な場所でしたよね。
山下 そうですね、来ているのは有名人や文化人ばかりで、僕が覚えているだけでもオノ・ヨーコさんや岩城滉一さん、舘ひろしさん、かたせ梨乃さんが来られていましたから。でも、そういうところでモテるのは、やっぱり外国人のタレント、野球選手でした。彼らはやっぱり大きくてカッコいいし、お金持ちでね。
テリー 失礼ですが、山下さんの当時の収入って、どのぐらいだったんですか。
山下 当時で月80万円ぐらいですかね。そこそこ稼いでいたとは思いますが、いつまでもこんな生活が続くはずはないし、30歳になった時に世間から捨てられるのは嫌だなと思って、24歳で文学座の研修所に入ったんです。
テリー へえ、あの頃の文学座って、なかなか入れなかったんじゃないですか。
山下 当時は松田優作さんや中村雅俊さん、樹木希林さん、桃井かおりさんなどそうそうたるメンバーがいらっしゃいましたからね。上智大学で試験を受けたんですけど、受けたのが2000人で受かったのは200人、今も現役で残っているのは3人ぐらいですね。
テリー そこまでの高額のギャラを捨てて役者になるなんて、よくそんな勇気がありましたね。
山下 最初はモデルクラブに所属したまま研修所の授業に通っていたんです。でも、そうしているうちにモデルの仕事を断ることが増えてきてしまって、社長から「中途半端な仕事をするな」と言われまして。若いし、純情でしたから、そこでモデルは辞めることにしたんです。1年くらいは貯金で食べていけるだろうと。
テリー 今だったら、モデル事務所が役者を抱えるなんて珍しくないのにね。
山下 実はその事務所の先輩に奥田瑛二さんがいて、やっぱり役者をやりながらモデルもやっていたので、向こうとしては、そこまで重たい話じゃなかったのかもしれません。でも、自分の中ではそれで踏ん切りがついて、研修の終わり頃に「太陽にほえろ!」のオーディションに行ったら、たまたま受かってしまって。
テリー とんとん拍子じゃないですか。
山下 「文学座」のブランドがあったからこそ、とも思うんですが、新人の登竜門的な人気番組に出られることが、とにかくうれしかったですね。